『HOT SWEET CHOCOLATE』の続き。
最上質の羽毛布団はいつもなら心地よい眠りに誘ってくれると言うのに、その夜のキエルは全く眠気と言うものを感じていなかった。ベッドサイドの時計が示す時間は23時41分。先程時計を確かめた時から10分も経過していない。今日は予定外の謁見や予想外のトラブルが相次いたので彼女の心身はとても疲れている。明日は早朝からその対応の続きに当たらなければいけない。ベッドに入ったからには早々に眠りに付き体を休めるべきだと言うのに、キエルはまんじりともしないでただ時間を消費していた。
(…あと15分)
あと15分で今日が終わる。日付が変わり明日になる。ただそれだけのことが今のキエルには重かった。今日は祝日でも何でもないただの平日だった。トラブルが続いた日ではあったがそういう日は時折あるもので珍しいことでもない。ただの1年の内の1日というだけの日。それだけの日。
そう何度も自分に言い聞かせたのに、いつまでも納得しきれない。
(早く終わってしまえばいいのに)
そうしたら諦めきれるのに。八つ当たりじみた気持ちで時計を見る。23時46分。あと14分。
いっそ時計を進めて今日が終わったことにしてしまおうか、とキエルが時計に手を伸ばそうか検討し始めた時、不意に流麗な鈴の音が響いた。来客を告げる音だ。
(…?)
こんな時間に誰が、と不審に思いつつ、キエルはベッドより起き上がった。テロなどの非常事態ならベッド脇の非常用回線が用件を告げるはずで、つまりこれは非常でない通常の来客だ。眠っていたことにして無視しても責められる謂れはない非常識な時間、だがキエルは来客に応じることにした。どうせ無視しても時間が早く過ぎる訳ではないのだから、と。
ナイトウェアの上にガウンを羽織る。姿見で簡単に髪を整える。そうしてようやくドアの外に声を掛けた。
「どなたですか?」
「私です。このような夜更けに申し訳ございませんが、少しよろしいでしょうか?」
「…ハリー?」
問いかけるまでもなくその声は彼女の親衛隊長のものだった。そもそもキエルがいるここは、白の宮殿の最奥、女王の私室だ。ここまで正規にやって来れる人間は限られている。そして彼は、彼女以外で最もこの私室を訪れる回数が多い人物だった。
「どうかなさったのですか? このような時間に…何か急用でも?」
ハリーがこの部屋を訪れることは珍しくない。『ディアナ・ソレル』の腹心でありキエル・ハイムの恋人でもある男だ。時には泊まっていくこともある。だが、彼は恋人ではあるが、礼儀と言う物を弁えた人物でもあった。ハリーがこの部屋を訪れる時は必ずキエルに伝えてからであるし、予告なしに訪れる時も常識の範囲内の時間を厳守した。緊急事態で無い限りこのような夜更けに訪れたことはない。
緊急用の回線すら使用できない程の重要なことなのかと考えるが、それにしてはハリーに焦燥の色が無い。真剣な面持と声音ではあるが命の危機と言う訳では無いようだった。
「はい。どうしても本日中に成し遂げたい重要事項がございまして」
「本日中に?」
とにかく中に、とキエルが促し、2人ともが私室に入る。ドアは閉められて2人きり、誰も邪魔の入ることのない私的な空間。彼にしては珍しい落ち着かない様子で、ハリーは年代物の柱時計に目をやった。
「23時53分…どうやら間に合ったようです」
「本日中に、ですか? いったいどのような案件で…」
「これを、貴女に。どうしても本日中にお渡ししたかったのです」
「え…」
いかにもアクセサリーが入っているとわかる小さな箱と、少し重さのある大きめの箱。その2つを差し出されたキエルは目を丸くした。箱たちとハリーの顔を交互に眺め、どうして、と視線で訴えかける。今日はキエルの誕生日でも何でもない、ただの普通の1日だ。それなのにどうして、と。ハリーはその様子にやや口元をほころばせ、そのプレゼントの理由を語った。
「今日はホワイトディと言う日だと伺ったので、先日のバレンタインディのお返しです」
「…え? …え!? ご、ご存知でしたの!?」
「はい。ですからどうぞ、受け取って下さい」
「…!」
すい、と差し出されるプレゼントをとっさに受け取り、キエルは再び箱たちとハリーに視線を交互する。まさか、とキエルの表情は語っていた。まさかご存知だったなんて、と。
先月同日、14日。ボルジャーノのリリ嬢から聞いた地球のとある地方の風習に則って、キエルはハリーにチョコレートをプレゼントした。2月14日は家族や友人や、或いは恋人に親愛の情を込めてチョコレートを贈る日なのだと言う。チョコレートその物ではなくホットチョコレートという形ではあったが、ハリーは快く受け取ってくれた。キエルはそれで満足だった。
リリ嬢からはバレンタインディの翌月同日、3月14日の話も聞いていた。バレンタインディにチョコレートを貰った人がお返しのプレゼントをする日なのだと言う。だがキエルはこの日の話をハリーに伝えなかった。月にはない風習のチョコレートをプレゼントしたのは言ってみればキエルの自己満足であり、自分の自己満足に見返りを求めるのは間違っていると思ったからだった。
間違っていると思ったのに、ハリーは知らないのだから求めるのは理不尽だと分かっているのに、キエルは気にしてしまっていた。本日3月14日、ホワイトディと言う日を。もう終わってしまう、早く終わって、と時計と睨めっこをしていた。叶えられるはずのない見返りが叶ってしまった。嬉しさよりも驚きが大きくて、キエルはあたふたと混乱してしまう。
「本当はもっと早くお渡ししたかったのですが…、このような時間になってしまい、大変申し訳なく思います」
「そんな…! そんなこと、ありません。嬉しいです。すごく…嬉しい」
今日トラブルが重なったのはキエルだけではない。ハリーも同様、或いはキエル以上に後処理が重なっていた。午後からは白の宮殿より遠く離れた場所に赴いていたのでこの時間に戻ってくるのは相当に難しかった筈だ。本当なら今晩は遠出先に一泊して明日の午前中に戻ってくると聞いていたのに。
「わざわざ戻って来て下さったのですか? 今日、これを渡すために?」
「はい。本日中でなければ意味がありませんから」
「…」
泣きそうになる。泣いてもいい。これは嬉し涙だ。
おそらくはキエルと同様にリリ嬢から聞いたお返しの日の為、多忙な体に鞭を打って帰って来てくれたのだ。キエルにこのプレゼントを渡すためだけに。どうして喜ばずにいられないだろう。嬉しくて嬉しくて、キエルは渡された箱を抱きしめた。強く、しかし抱き潰してしまわないようにそっと優しく。
眦に浮かんだ涙をそっと拭い、ハリーはキエルの頬に口づけた。そのままキエルを抱き締めようとして、はっと気付いて肩を抱くにとどめる。
「いけない。キエル、そちらの箱はあまり抱き締められては、溶けてしまうかもしれません」
「え?」
ハリーが指しているのは大きい方の箱だった。キエルは促されるままに抱きしめていた腕を離す。小さい方の箱は明らかにアクセサリーと分かる大きさだが、ではこちらは何なのでしょう、とキエルは小首を傾げた。
「溶けると仰るからには、食べ物なのでしょうか? …開けてみても?」
「勿論です。箱に入ってるのですから、大丈夫だとは思いますが」
小さい方の箱を一先ず手近なテーブルに置く。包装紙を解くと天鵞絨の箱が姿を現し、更にその蓋を開けてみると、中にはこげ茶色の甘いお菓子が並んでいた。
「チョコレート、ですね」
「はい。是非召し上がってください、と申し上げたいところですが…飲食には遅すぎる時間ですね」
「そうですね、いつもならこんな時間には食べませんけれど」
でも、とキエルは花のように微笑んで。
「今日は特別ですから、1つだけ頂きます」
どれにしようかしら、と数種類あるトリュフを見比べていたから、キエルは気が付かなかった。キエルの微笑みにハリーが見惚れていたことも、無理をして今日中に帰って来て良かったと内心で小躍りしていたことも。
どのチョコレートも最高に美味しそうで決めかねていると、不意にその内の1つが摘み上げられた。この場にいるのは2人だけ、キエルでなければ当然、もう1人によるものだ。
「ハリー?」
「どうぞ、召し上がって下さい」
チョコレートを1つ摘み上げて口元に寄せられた意図は明らかだ。顔を真っ赤にして少しの間固まってしまったものの、やがて躊躇いがちに口は開かれ、2人ともが最高に甘い幸せを味わったのだった。
ティーカップではなくマグカップ。飴色ではなくこげ茶色。その日の午後のお茶の時間、彼の主であり恋人でもある女性が手ずから入れてくれた飲み物は、とても珍しいことに紅茶ではなかった。
「これは…、ホットチョコレート、ですか?」
「はい。チョコレートはお嫌いでしたか?」
「好き好んでいるわけではありませんが、いえ、特に嫌いと言う程でもありません」
「なら良かった!」
どうぞ、と視線で促され、勧められるままに口に運ぶ。今までホットチョコレートを口にする機会もなかったので知らなかったが、チョコレートをそのまま液体にしたような物ではないらしい。牛乳か何かを加えて口当たりを滑らかにし、またブランデーを加えて香り付けもしているようだった。
濃い味のチョコレートに合うようにお茶うけのお菓子はチュロスを添えている。一口、二口とハリーが口にするのを見て、キエルは満足したように息を吐いた。
「貴女はホットチョコレートがお好きだったのでしょうか?」
「え?」
「とても幸せそうに、飲んでいらっしゃる」
「ええと、それは…」
キエルが笑顔を綻ばせたのは自分がマグカップに口に付けた時ではなく、ハリーが飲んだのを見届けたからだ。的外れの指摘をしていると分かった上でハリーはそう問いかけた。どうやらこのホットチョコレートを自分が飲むのには何らかの意味があるらしい。
言おうか言わまいか、キエルは少しの間視線を彷徨わせて躊躇っているようだった。絶対に言ってはいけないことならばこのような態度は取らない。言ってはいけない、ではなく、言うのが恥ずかしい、という態度だ。そんなところも可愛らしい、と内心1人で惚気つつ、キエルがちらちらと視線を向けている方向の1つにハリーも目を向けてみる。
実のところ、ハリーには心当たりがあった。先日地球に降りた折、リリ嬢との歓談で出た話題だ。だがその時ハリーは傍に控えていたのではなく、偶然通りかかって断片を耳にしただけだった。おそらくキエルはハリーが耳にしたことに気付いていないだろう。
知らないふりをして彼女を困らせたい訳ではない。照れている彼女が可愛らしいから黙っているだなんて、そんな意地の悪いことを私がする筈がないだろう。
もしかしたら、という予想はあるが、あくまで予想でしかない。はっきりとした理由を知りたいから彼女の答えを待っているだけだ。
己に言い訳をしつつ、彼女の言を待つ。たまには紅茶以外の飲み物も気分が変わっていいかもしれないと思ったのです、と言い訳じみた言葉から始まった説明は、ハリーの表情を緩ませるのに十分すぎる威力を発揮したのだった。
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日本のバレンタインの習慣が何らかの形で残っていたのをリリ嬢が誰かから聞いて、それをリリ嬢がキエルとの歓談中に話題として出して…という流れ。