方
貴 の
腕 で
溺 れ
た
い
首を絞めるのにも上手下手があるのだと、アキラはその時知った。
(…へたくそ)
何が悲しいのか何が悔しいのか、その男は泣いていた。次から次へと溢れる涙を抑えようともしない。感情が高ぶりすぎているせいでその目は血走って赤く染まっていたが、俺の好きな赤じゃない、とアキラはその目に嫌悪すら覚えた。色の深みは無く狂気の気配も全く感じない、同じようにアキラをベッドに押さえつけて首を締め付けていても、アキラの支配者とはその存在自体の格が違いすぎる。
「…ぁ、あ、」
「っ…!」
男は指先に力が入りすぎている。これでは押さえているのは気道よりも首の側面だ。気道も締めていない訳ではなく苦しくない訳ではないが、喉を震わせ声を発することすら出来る程度。
試しに出してみた声は喘ぎ声によく似ていた。アキラにはそのつもりがなかったが、男には嬌声にしか聞こえなかったのだろう。一瞬、締め付ける力が弱まる。すぐに我に返り再び締め付けてきたが、やはりアキラには物足りない締め方のままだった。
シキに締められると、もっと苦しい。アキラはその時の感覚を反芻させてうっとりと瞼を伏せた。それは艶笑にしか見えず、男には首を絞められ感じている猥らな化け物に見えただろう。事実、アキラは絞首されて性的興奮を得る体になっていたが、今微笑んだのは決して男の行為に感じたからではなかった。
(シキは、もっと上手い)
気道を閉じられ頚動脈を圧迫され、脳にも四肢にも何もかもが行き渡らなくなる。痛い。苦しい。止めて欲しいと思っても悲鳴も上げられない。抵抗に体を動かすことすらままならない。アキラの全てがシキの手の内にある。それは何と言う、――恍惚の時間。
(シキは…)
もう少し力を込めれば、頚椎が折れる。もう少し長く締めていれば、気を失う。そのどちらの限界まで締め続け、その手前で緩めてアキラを生かし、そしてすぐにまた再開して、アキラを殺そうとする。
実際、何度死に掛けただろう。窒息死ではなく、快楽で。シキに生死を握られているというこれ以上も無い実感、このままシキに殺してもらえるかもしれないという期待、狂気と猟奇に輝く赤い瞳に見下ろされ支配されている恐怖と幸福、それらはアキラをこの上も無い充足感で満たし、性的興奮へと昇華する。
(シキだけが…)
俺を、殺す。
何度も。何度も。
心も、体も、何もかも。
「…、ぅ、そ」
「…?」
それは独り言にも近い微かな声だったが、不幸なことに男の耳にも届いてしまった。聞こえただけなら、そのまま聞き捨てればまだ不幸中の幸いだったものを、男は手を緩めアキラに「何と言った?」と問うてしまった。
「…へた、くそ」
「…っ!」
男が憤怒に燃える。両の手に今までに無く強い力が込められる。気道をも強く締め付けてきたせいで今度こそアキラは何も言えなくなった。僅かな呼吸も悲鳴も上げられぬまま、それでもへたくそ、とぼんやりとしてきた頭で繰り返した。
(…ぜんぜん、気持ち良く、ない)
生理的に浮ぶ涙で潤んだ瞳、しかしそこに宿るのは男への蔑みだった。自分が殺そうとしている相手、今にも殺そうと締め付ける相手からの侮蔑に、男の感情は更に逆立てられる。怒っているのか悔しいのか、許せないのか悲しいのか。もはや男自身にも何故自分が泣いているのか分かっていない。
「この、汚い男娼が…!」
吐き捨てたような言葉を最後にアキラの意識は沈んでいく。
殺されようとしていながら、しかしアキラに恐怖はなかった。死ぬとも微塵にも思わなかった。
(俺を殺すのは、)
こんな男の紛い物の赤ではなく、純粋の。血よりも昏い赤の双眸。
(――シキ)
ぱらり、と紙を払う音に、アキラは目覚めた。
意識を手放す前と変わらない、シキの寝室のベッドの上。アキラの他にはもう1人しかいないのも同じだったが、その人物は変わっていた。紛い物から本物に、アキラの所有者に。
「…ィ…」
シキ、と呼びかけるつもりの声は言葉にならない。締められたことで喉を痛め、眠っていたことで乾燥しているからだ。傍らの椅子で読書に勤しんでいた人物は、栞を挟むこともせずに本をサイドテーブルに置いた。アキラの背に手を添えて上体を起こさせる。水差しを差し出してアキラに飲ませる一連の動作中、彼は何も言おうとしなかった。
「シキ」
潤った喉がようやくその名を口にする。伸ばした腕はその男、アキラを支配する所有者の首に巻きつこうとしたが、しかし容易く纏めて押さえつけられた。
「…おかえり」
力任せに押さえつけられてアキラの関節は悲鳴を上げていたが、アキラは気にすることもなくふわりと微笑んだ。恋人の帰りを待ちわびていた乙女のような、男を奈落へと誘い込む傾国のような微笑だった。
「…」
シキは未だ無言のまま、その顔をアキラの首筋へと埋める。そこには赤い痕が残されていた。シキの残した痕ではない。両の指の形、アキラの首を絞めていた男の痕だった。
「…っ!?」
がり、と骨まで齧りつくような衝撃。アキラは思わず詰めた息に、しかし苦痛よりも悦楽を感じていた。男の指の痕を上書きするシキの噛み傷。滲んだ血は流れ落ちることすら許さないと舐め取られ、ぴりりと走る電流のようなものさえ今のアキラには快楽を煽る火種だ。
「…シキ」
もぞり、と立てた膝をシキの腹に摺り寄せる。アキラが熱を持ち始めたことなど容易く見越していてもシキは応えない。そう簡単に望むものを与えてくれるほど、この支配者は優しくはない。アキラの首筋から顔を起こした時、そこには幾つもの歯型が残されていた。
「下らん遊びも大概にしろ。それとも死にたかったのか?」
「死ぬ…? 俺が…?」
幼子のように首を傾げるアキラは、本気でシキの問いの意味を理解していなかった。
アキラにしてみればいつもの退屈しのぎの遊びでしかなく、死ぬつもりも殺されるつもりも一切なかった。アキラは自分を殺すのがシキ以外ありえないと本気で信じている。シキ以外の誰にも殺されることはないと。それはアキラにとって疑うまでもない真実だ。
シキとは似ても似つかないあんな男に殺されるはずがないと考えて、アキラはもうあの男の顔も声も思い出せないことに気付いた。気付いたが、どうでも良いことだった。どうせもう二度と会うことはないのだから。
(…あの男)
そう言えば、居なくなっている。アキラが死んだと思って逃げたのか、それとも警備兵に殺されたのか。
いいや、とアキラは即座に否定した。アキラに傷を残した人間を、シキが自分で殺さないはずが無い。逃げたかもしれない、しかし逃げ切れない。警備兵に捕らえられたかもしれない、しかし殺したのはシキに違いない。
それだけ分かれば充分だと、アキラは満足に笑った。そもそも何故アキラを殺そうとしたのかも謎のままだが、アキラはそのことを思いつきすらしなかった。誰かを殺された恨みか、シキを崇拝するが故にアキラという愛妾を認められなかったのか。もはや確かめることは出来ないし、たとえシキに尋ねたところでシキも理由など聞いていないだろう。反逆するならば殺す。アキラに手を掛けたならば殺す。シキにとって重要なのは行動と結果のみ、原因など気にも留めない。
シキは一瞬不審そうに目を細めたが、アキラの様子などどうでもいいと切り捨てたようだ。アキラの背に添えていた手をベッドへと下ろしてゆき、再びアキラを横たわらせた。
既にアキラの両腕の拘束は外されている。自由になった手を当初の予定通りシキの首へと絡みつかせると、シキの体もがベッドへと倒れこんだ。シキはアキラの自由にさせてそのままアキラの体に自分を添わせた。
ちゅ、と退廃的な室内に不釣合いな、いとけないリップ音が響く。バードキスから覗く舌先はキスの幼さに反比例するような淫靡さでシキの唇を突付いた。絡み取るのではなく、ただ触れるだけ。誘い込まれた口内でも舌同士を絡ませることはせずに舌先を触れ合わせる。シキが舐め取ったアキラの血を今度はアキラが舐め取るように。
「…は…」
顎を伝って唾液が落ちる。ひやりと唾液の道が冷えていく感触。アキラを見下おろす深紅の双眸は怒りを湛えていた。アキラが他の男を咥えこんだからか、他の男に傷付けられたからか。そのどちらでも或いはその両方でも、アキラにはどうでも良かった。シキが感情を揺らすこと、その原因が自分であること。そしてその激情の向かう先が自分であること。最も重要なのは最後の1つで、それさえ永劫に続くのであれば、アキラには何の不満もない。
「…さっきの、男」
最高級のルビーのことをピジョン・ブラッドと言う。神に捧げられた鳩の血の神聖さと美しさをルビーの品質の良さの例えに使ったのだと、以前シキから聞かされた。シキへの献上品の1つだったろうそれは確かに美しかった。しかしアキラはもっと美しい赤を知っている。
この目。鳩の血など比べようもない深い昏い赤。神聖さの代わりに狂気を凝縮したシキの瞳。アキラだけを映している。アキラが他の男を話題に出すだけでも不快だと雄弁に語る、その不快さすら喜悦に換えてアキラを攻め立てる目こそが、アキラの唯一にして最高の宝石だ。
「男娼って、言ってた」
「ほう」
シキの眼光が愉しげに揺れる。何が面白いんだろう、とアキラはその意味を理解できない。したいとも思わない。
「おかしいよな。俺は体を売ったことなんかないのに」
「そうだな。男娼よりももっと性質が悪いものだ、お前は」
「ふぅん」
シキの言っている意味は分からないけど、シキが言ってるならそうなんだろう、とアキラは思考を放棄する。持ち上げていた頭を柔らかなクッションに倒れこませると今度はシキの方から顔を寄せてきた。まるで離れることなど許さないとでも言うように。
「一度そこらの通りに立ってみるか? お前を求める男どもが群がり、我先にと争い始めるだろうな」
その様子を想像しているのか、シキの口元が弓にしなる。アキラはどうでもいいとばかりにシキの首に顔を埋めた。すぅ、と深く息を吸い込めば、シキの体臭がアキラの中に入ってくる。喉から気管へ。気管から肺へ。肺から全身へ。さっきの男のものであろう新しい血臭を纏わせたその香りを心地良いと感じながら、アキラは静かに目を伏せた。この血も空気も何もかも、シキを纏ったものになればいい。
「…いいよ。そいつら全員、シキが殺してくれるなら」
「は…」
くつくつとシキの喉が鳴る。赤の瞳が細められて僅かにその眼光が緩まる。口元の笑みが深くなる。シキは愉しそうに、これ以上の愉しいことなどないように、アキラの願いを肯定する。
「街を1つ滅ぼす破目になりそうだ」
「でも、シキは喜んで殺してくれるだろ?」
「無論、殺し尽くしてやるとも」
「なら、俺はそれでいい」
手袋を履いたままの手がアキラのシャツを割り入る。その動きはいっそ残酷なほどに優しく緩やかで、火の付きかけたアキラを尚更に煽る。胸の頂も臍のピアスも、芯を持ち始めたアキラ自身をも全く触れてくれない。
「シキ」
こんな時にシキが欲しいと素直にねだっても中々与えてくれないくせに、もう無理だと許しを請うたらもっと酷く強く抱き潰す。もどかしいながらも漏れる嬌声の合間に、シキは意地悪だ、と耳元で囁いた。