傍らに
添う。
一際強い風が窓を揺らした。隙間風こそ入ってこないが、強い寒気の風が室温をも下げつつあるのは疑いようも無い。アキラたちが現在寝ぐらとしているのはいつもの如く廃ビルの一室で、当然そのような場所では満足な暖房器具など手に入るべくもない。元は警備員の宿直室だったらしく、使用可能なベッドが2つ残されていただけ御の字というものだ。
(…冷えるな)
毛布と綿布団を被りこんでいても僅かな隙間から入り込む冷気が容赦なく熱を奪う。アキラは元々寒さも暑さも大して気にしない。これなら屋内で毛布を被りこんでさえいれば凍死の心配はないだろうと見当をつける。だがそれは、自分1人に限って言えば、だ。
「…シキ」
呼ぶ声に応えはない。アキラは体を起こして隣のベッドへと視線を向けた。そこには先程車椅子からベッドへと横たわらせた時と全く変わらない姿で、黒髪の麗人が眠っていた。
「寒くないか?」
掛ける声に応えはない。身を乗り出して触れるには遠いと、アキラは体をベッドから下ろした。爪先を引っ掛ける程度に履いた靴の足音は3回だけ。ベッドの傍らに立ち、手をその白い相貌へと伸ばす。白磁のようと称されるべきその肌は、その温度までもが白磁のように冷たかった。
「…やっぱり冷えるか」
触れた手を一旦引き、布団の中へと潜り込ませる。アキラと同じく毛布と綿布団に包まれていた指先に触れる。指先は頬ほどには冷えていなかったが、暖められているとは言いがたい温度だった。
自分の体温を与えるようにアキラはその指を握った。痛みを感じない程度の強さ、アキラの力と熱を感じるようにと握りこんだその手に、しかし応えはない。
「俺の毛布も被るか? …いや、それでも大して変わらないか」
毛布1枚を増やした程度で熱が逃げるのを完全に止められるとはアキラには思えなかった。それにアキラの分を減らしたら今度はアキラが辛くなる。寒さを大して気にしないとは言っても寒さを感じないという意味ではない。
「…」
嘆息を1つ、アキラは自分の使っていたベッドへと踵を返した。アキラの体温を纏った毛布を取り上げると再び体を反転させ、すぐにもう1つのベッドへと体を戻す。その体温を逃さぬようにアキラの毛布も被らせた。
「シキ」
呼ぶ声に応えはないと分かっていても、アキラは呼びかけるのを止めようとは思わない。シキ、とその存在を呼び続ける。呼ぶことでシキがここにいると実感し、自分は傍にいるのだとシキに教えている。シキからの応じがない以上自己満足でしかないのだと分かっていても、それでもアキラは止めようとは思わなかった。
「…入るぞ」
ベッドの真ん中に横たわらせていた体を少しだけ端に動かし、空いたスペースに自分が潜り込む。シングルサイズのベッドに男2人の体は窮屈だが入れない程でもない。伸ばした足先に触れたシキの足先は指先と同じく冷えてしまっていた。
1つのベッドで眠るなんてまるで浮かれた恋人同士みたいだと、最初こそアキラ自身呆れた行為だが、2度3度と繰り返す内に慣れていった。逃亡を続ける日々、寝ぐらとするのは大抵がここと同じような廃ビルの一室だ。時には寝具すら満足に得られないこともある。冬の寒さを凌ぐ為には互いの体温が1番手っ取り早いと気付くのにそう時間は掛からなかったし、またその必要に迫られることも珍しいことではない。
1人分の体温と2人分の体温とでは布団の中の温もりは格段に違う。アキラは先程1人で包まっていた時とは段違いな温かさを感じながら、触れているシキの体が少しずつ温まっていくことに安堵した。
(…これなら大丈夫か)
今晩はこのままで大丈夫だろう、だけど、とアキラは嘆息を漏らす。季節は寒さの1番厳しい時期に入っている。今を乗り越えれば温かくなると言っても、この寒さは今晩で終わるわけではない。何処かから追加の毛布なり暖房器具なりを調達してくる必要があるな、とアキラの明日の予定が決定した。同じベッドで眠ることに慣れはしても毎日となると話は別だった。アキラとシキの2人ではシングルサイズのベッドでは窮屈だったし、それに、
(…)
冷気が入り込まないように極力隙間を作らないよう気をつけながらアキラは上体を起こした。カーテンなど掛かっていない窓からはおぼろげな月光が差し込んでいる。徐々にではあるが布団の外に出ている顔にも熱が伝わってきているのか、蒼白に近かった頬も僅かに色づいているようだった。
(…こんな暗がりじゃ分からないか)
伸ばした手がシキの頬に触れる。先程触れた時よりは温かみがある。それでもまだアキラの手よりは冷たい。温もりを分け与えるように手の平全てを頬に添える。すると親指が唇に触れた。かつて嗜虐的な笑みを浮かべていたのが嘘のように穏やかで平坦なそこを、アキラは指の腹でなぞった。この男が笑っている時の記憶は碌なものが無い。それでも、それなのにアキラには刻み付けられている。シキの苛烈な瞳の色と、弓にしなる笑みの妖艶さとが。
じくり、と腹に熱が宿る。正確には腹ではなく、臍に。アキラの体に穿たれた所有の証に。
刻まれた時は抵抗した。自分は自分のものだとその意味を認めなかった。それなのに、それを穿った本人から所有を放棄され証の意味を失っても、アキラはそのピアスを外そうとは思わなかった。その理由はアキラ自身にも分からない。何となく外そうと思わない――シキが証だと主張しないのなら、わざわざ外す必要もない。もはや外さない為の言い訳を用意してまで。
アキラの手の熱が伝わったのか、頬に、唇に、僅かな赤みが差してきた。赤は何よりシキに似合う色だとアキラは思う。艶やかで鮮やかな髪の黒もきめ細やかな肌の白さも、赤の強さを際立たせる。ただしシキに本当に似合うのは頬の和らげな赤みではなく、深く鮮烈な血よりも赤い、今は閉ざされた瞳の色だ。
「…シキ」
言葉を発しなくなって久しい唇に触れた。指ではなく、アキラのそれで。支配と従属の手段として体を繋げるだけだった時には交わしたことのない行為だ。アキラがシキから触れられたのはただの1度のみ。月光が差し込む夜に抱き締められたあの時だけだ。
唇同士が触れるだけ、皮膚の一部が触れ合うだけ。ただそれだけの行為なのに特別な意味を持たせようとするのは、アキラがシキへと特別な感情を抱いているからだ。その感情を何と呼ぶべきなのかは、未だ分からずとも。
「…シキ?」
閉ざされたままだった瞼が揺れた。アキラの呼びかけに応えるように、或いは口付けに誘われたかのように、その赤が姿を見せる。
その目からかつての怜悧な刃物のような鋭さは鳴りを潜めている。ただ美しいだけの硝子玉のようでいて、それでもその奥には決して消えぬ炎が燻り続けているようにも見えた。月明かりの薄暗がりだけでそこまではっきり見えるなんてなと、アキラは自嘲する。アキラがそう見たい願望が目の錯覚を起こしているのか、暗がりでさえ鮮やかな程にシキの赤が強いのか、果たしてどちらだろうと。
「起きたのか?」
散々呼びかけていたから起こしてしまったのかもしれない。瞳を覗き込むようにアキラは身を乗り出した。布団からはみ出た肩が外気にひやりとする。頬に触れている手はそのまま、片方の手をシキの頭の横に着いた。シキの目に映るのは覗き込もうとするアキラ自身の顔だけで、意思の光は欠片も見つけられない。
「…」
シキは無言だ。何も言葉を発しない。その目には何も映さない。かつてトシマで出会った時の、閃光のような眼差しは、もう存在しない。全て奪われてしまったのだ、――あの男を殺したことで。
「…」
全てを得られるからこそ、何も得られない。
全てを奪えるからこそ、何を求めたらいいのか分からない。
哀れとしか言いようの無い男だった。出会い方が違えば、もっと深くまで知ることがあったなら、アキラがあの男に抱く感情は全く違うものになっていただろう。ともすれば傍にいることを選んだかもしれない。だがそれは所詮仮定の話、今ここにいることを選んだアキラにはあり得ない話だ。
「…シキ」
呼ぶ声に応えは無い。それでもアキラは呼びかけ続ける。いつかシキが応えてくれるのを期待してと言うよりも、ただ呼びかけ続けたいからだ。
あの眼光が無くなっても、アキラに何も応えなくなっても、アキラにはシキから離れるという発想は一切起こらなかった。シキの全てを見届けたいと、――シキの傍に居たいと。アキラにはそれが全てだ。
「シキ」
顔を寄せ、唇に触れる。目覚めたのが口付けならば眠るのもまた口付けだった。シキが穏やかな寝息をたて始めたのを確認してから、アキラは起こしていた体を布団へと戻す。
無防備に寝顔をさらし横で眠ることを許す。トシマにいた頃ならあり得ないことだったなと懐かしむ程度には、シキの寝顔にも慣れた。白磁のような体でも触れていると温かいことも知った。顔を寄せれば微かに感じる体臭も。
「…おやすみ」
一生消えることはないだろう血臭と少しの汗の匂いと、アキラを惹きつける甘い香り。それらに誘われるようにアキラも目を閉じた。抱き締めるのではなく、添うように。
雁字搦めにするのではなく、傍らに共に在りたいのだと言うように。