ふと、一騎は顔を上げた。

 ベンチのすぐ傍の木から鳥が飛び立っていく。チチチッと高く鳴く鳥は何の鳥だったのか一騎は思い出せなかった。ただ今鳴いているから春の鳥かもしれない、と思う。
 鳥が飛び立った木には蕾がついていた。既に綻びかけている物もある。後数日もすればどの蕾も咲き始めることだろう。いつかこの島のミールが引き起こした異常開花とは違う、本当の花が。


 …いつだったっけな。


 そう遠くない過去、なのにひどく遠くに感じる過去。あの時からまだ一年も経過していないのに、一騎には何十年も過ぎたように思えて仕方がなかった。

 北極ミールが壊滅するまで、一騎だけでなく竜宮島の島民全員にとって、一日はとても短かった。フェストゥムを倒さねばならない、そのために準備するべき事は数限りない。
 しかし決戦の日までは限りがあり、また時間をかければそれだけ不利になる。特にファフナーパイロット、特に一騎は。


 ところが蒼穹作戦を終えた途端に一日は一騎にとってとても長いものになった。
 すべき事がなくなったのではない。
 北極ミールは倒せたが、衛星軌道上にあったコアが地球に降下して小規模なミールと化し、各地のフェストゥムを統括して勢力を築きだした。そのため人類軍は小ミールを発見・壊滅する作戦を展開し始めている。
 竜宮島は蒼穹作戦後は再び人類軍と袂を分けたが、かと言って無関係でいられる訳でもない。小ミールと接触した場合を想定しての臨戦態勢を整えておく必要がある。

 一騎達ファフナーパイロットは同化現象の治療とファフナーの訓練を続け、次世代のパイロットの育成にも携わるようになっている。
 史彦達司令部は小ミールへの警戒を初めとする各種懸案に取り組み、千鶴達研究者はマスター型フェストゥム・ミョルニアを通じて真壁紅音がもたらしてくれた情報の解析・実用化に奮闘している。


 すべき事がなくなったのではないのだ、決して。
 同化現象というタイムリミットが無くなっただけで、すべきことは何一つ減っていない。だと言うのに、それでも一騎が時間を長く感じるのは、パーツが足りないからだ。
 未だ回復の兆しを見せない右目ではない。肉体以上に一騎を一騎として構成するための、一番大切なパーツが足りない。


 ――総士。


 一日千秋とはまさに今の一騎に相応しい言葉だろう。一時一秒ですら今の一騎には長い。総士が帰って来るまでずっとこのままなんだろうなと、一騎もうすうす察している。

 愛しい人を待つ時は長く、愛しい人と共にすごす時はあまりに短い。どこかで聞いたそのフレーズを思い出し、一騎は苦笑した。まるで恋人を待っているような自分がおかしかった。


 一騎にとって総士は家族ではない。友人でもない。そして、恋人でもない。
 総士がどのような存在なのかなどと、考えたこともない。
 ただ誰よりも強く想ってる。

 一騎はこの感情が何と呼ばれているものか知らないし、知ろうともしていない。自分の感情に無理に名前を付けようとも思わなかった。
 一騎にとって総士は唯一無二の存在であること、それだけで良いのだ。


 一騎は右腕を天にかざした。同化現象のせいで動かなくなっていた右半身だが、今では右目を除いてほぼ万全に回復している。真壁紅音がもたらせてくれたということは、一騎にとっては母に守られたと同義だ。ミョルニアのコアを救出することは母の意志を受け取ることでもあった。
 母と、総士と。今更ながらに一騎はあの作戦の意味の深さを思い知らされる。

 治療の時間が近付いていた。そろそろメディカルルームへ向かわないとまた真矢が心配して探しに来るだろう。そう分かっていても一騎は腰を上げようとしなかった。


 ――俺はここにいる。総士――


 右手越しに見える空は雲一つない快晴だった。
 遮るものが何一つない、吸い込まれそうな蒼い空。
 この空の下で一騎はいつまでも待ち続ける。

 あの日一緒に飛んだ蒼穹の中、総士は必ず帰って来ると約束したのだから。



 一騎が待つ、この場所に。









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