ある心地良い午後の出来事






 阿吽は誇り高い生き物だった。
 絶対の忠誠を誓った主とその主が許した者以外は絶対に乗せようとしない。言葉を喋ることすら出来ぬ乗り物風情がと憤慨する者もいたが、己に乗る者を選ぶのは、乗り物であるが故の矜持だった。
 それに阿吽はただ空を翔るだけの妖怪ではない。翔る速さは他のどの妖怪にも並ぶ者はなく、口から発せられる火炎は人間程度なら簡単に消し炭と化する。阿吽は速くて強い、それ故にあの強大な妖怪に仕える事を許されたのだ。

 白銀の毛並みを持つ犬の妖怪。冴え渡る美貌の仮姿をとる強くて美しいバケモノ。
 阿吽は震えた。
 この強大な妖力の持ち主に遭遇した恐怖に。
 この強大な妖力の持ち主に仕える事の出来る歓喜に。

 阿吽は主に仕え始めた時から、主と主が許した者意外は乗せないと決めていた。しかし阿吽は随分と長い間主しか乗せてこなかった。主が己の駒に他者を乗せようとしなかったからだ。仕えているだけ時間なら阿吽より長い邪見でさえ、阿吽の背に乗ることはなかった。
 それは主が阿吽をそれだけの価値がある駒と認めているからなのか、或いは自分の物に触られるのを嫌ったからなのか。阿吽には解りかねたが、しかし大した問題ではなかった。ただ主に仕え、主に必要とされればそれだけで満足なのだから。

 阿吽は次第にもう己は主しか乗せることがないのではないかと思うようになっていった。
 主が己の駒に乗っても良いと認めた程の者、言い換えれば主の賓客であろう者を、主に代わって運ぶことは阿吽の願いの1つであったが、叶えられぬのならそれでも良いと思うようになった。己は主だけを運べば良い。己はただ1人の主のみを運ぶのだと。
 阿吽がそう考えるようになってかなりの年月が過ぎた頃、しかし阿吽は初めて主以外の者を乗せることになった。

 ――何だと?

 阿吽は最初夢かと疑った。
 主が初めて己を許す者はどんな者なのだろうと阿吽は夢想していた。屈強な大妖怪か、妖艶な女妖か。どんな者にしても、主が認めるほどの者だ、さぞ強大な妖怪であるに違いない。そしてその者を乗せて阿吽は風よりも速く空を翔けるのだ。
 何という速さだという言葉を、阿吽は夢見ていた。何という速さだと、このような駒を持つとは流石は殺生丸様よと、阿吽を通して主が賞賛されるのを夢見ていた。

 だがその時阿吽の背に乗ったのは、強大な妖力など欠片もない、ただの人間だった。力強さも美しさも持たない、ただの小汚い小娘だった。夢かと疑っても状況は何も変わらず、むしろ現実を思い知らされた。

 次に阿吽は何かの間違いだと思った。主がこのような小娘を認められるはずがない、そう、何かの間違いなのだと。
 しかしこの娘は紛れも泣く阿吽の主が認めた者だった。多少ぞんざいな扱いだったとはいえ、確かに主はこの娘を抱え上げて、阿吽の上に下ろしたのだ。そこにいろと、娘に告げたのだ。




 人間を殊の外嫌っていたはずの主が、何故このような小娘を。
 阿吽の疑問は解かれることなく、ただ日々が過ぎていった。
 いつの間にか娘が阿吽に乗ることも珍しくなくなっていった。それどころか冷えの厳しい夜などは阿吽の上で寝て暖を取ることすらあった。

 よく喋り、よく走り、よく食べ、よく笑うだけのただの小娘。

 いつしか阿吽は気にならなくなっていた。
 主がこの娘の何を認めたのか己には解らぬ。しかし己が気付かないだけで、主が同行を許すだけの何かがあるのだろうと、そう思うようになったのだ。




 その日もまた、娘は阿吽の鞍に乗っていた。正しくは寝転がっていた。主が邪見を連れて出掛け、阿吽は娘の守り役として残されたのだ。
 娘は殺生丸さま早く帰ってこないかなー、といつものぼやきを漏らしていた。ごろごろと手持ち無沙汰に阿吽の背を転がっている。やがて不意に触れた鬣に何かを思いついたのか、娘はがばっと勢いよく体を起こした。


「阿吽のたてがみって柔らかいねー」


 娘は阿吽の鬣に無遠慮に触れてきた。阿吽は軽く頭を振って嫌がったのだが、娘は気付かずに触り続けている。
 仕方ない、子供のすることだと諦めておとなしくしていると、娘は鬣を一房掴んで三つ編みを始めた。完全に暇つぶしだ。


「すっごいふわふわしてる。殺生丸さまの毛皮みたい」


 びくん、と。阿吽の体が大きく跳ねた。
 急で驚いた娘がうわ、わ、とバランスを崩しかけるが、手綱を掴むことで何とか堪えることが出来た。どうしたの、と娘は阿吽の顔を覗き込んだが、それきりで何の反応もない。しゃっくりでもしたのかな、と自己完結し、娘は三つ編みを再開した。


「あのね、殺生丸さまの毛皮ってすごく気持ちいいんだよ。ふわふわで、もこもこで、さらさらなの」


 まさか。阿吽は我が耳を疑った。この娘が主の毛皮に触れたと言うのか、本当に。
 阿吽にも疑っても意味のないことと分っていた。娘に嘘を吐く理由はない。娘はかつて――一度か数度かは分らないが――本当に触れたことがあるのだろう。娘は毛皮などと言っているが阿吽は知っていた。あれは主の体の一部だ。本体の大犬の姿になった時の尾の一部が人の仮姿をとっている時も現れている。あの美しい妖の尾ならさぞ素晴らしい毛並みなのだろうと、阿吽にも容易に想像はつく。一度でも頬を寄せてみたいと思ったことがないと言えば嘘になる。
 しかし――だ。思うことと実際に行動に移すことは別物である。
 あの主に――冷静沈着・冷酷無比をそのまま姿に現したような、ある種傲慢な性格の主に、どの面下げて尾に触らせて下さいと言えるのだ(もっともそれ以前に阿吽は人語を理解できても喋ることは出来ないのだが)

 いつの間にか娘は一房目を編み終え、二房目に移ろうとしていた。この娘は一体どのように頼んだのだろうか。
 …何の屈託もないいつもの無邪気さを全開にして頼んだに違いない。
 阿吽の主は己を曲げるということを絶対にしない。誰に何を口出しされようとも、そうすることが己の矜持の全てであるかのように。それはこの娘にしても同じで、娘がどんなに懇願しても聞き入れられないものは絶対に聞き入れられない。――逆に言えば。主の意に反する物でなければ、この娘の「お願い」は全て聞き入れられているような気がする。
 阿吽には何となく想像がついてしまった。

「殺生丸さま、そのふわふわに触っていい?」
 と娘が言い、
「……好きにしろ」
 と主が返す図が。

 阿吽から見て――おそらくは邪見も――、主はこの娘に甘い。決して猫可愛がりをしているわけではないが、これまでの主では考えられないような寛大さを見せることがある。
 主が娘を同行させる理由と娘に甘い理由は同じものなのだろうが、阿吽には到底窺い知ることが出来ない。


 よく喋り、よく走り、よく食べ、よく笑うこの娘が何を持つのか。


 三房目へと突入していた娘の手が不意に止まった。あ、と顔を上げた先に、娘が待ち望んでいた姿が見える。娘は勢いよく阿吽から飛び降りると、その姿に向かって駆け出した。


「お帰りなさい、殺生丸さま!」


 娘はまた主に笑いかける。心から嬉しそうに、心から幸せそうに。
 矮小な人の身でありながらかの大妖怪を怖れもせずに、ただ無条件に慕って。


「…」


 主は相変わらず口を開こうとしない。娘に応えることなど滅多にないというのに、娘はそれを気にする風もなく駆け寄っていく。


 何故主がこの娘を連れ歩くのか、何故この娘が主をこうも慕うのか。阿吽には解らないことばかりだ。
 だが少なくとも、娘に次から次へと喋りかけられる主の顔が、煩そうではあっても不快気ではないから。それはそれで良いことなのだろうと、阿吽もまた、一歩主に近寄って行った。






どうしてまた一作目から色物に
走るかなぁ私は…。




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