刹那に潜む悠久







 年相応の皺を刻んだ手が弱々しく伸びた。間髪を入れずにその手は別の手によって掴まれ、女は喜色の微笑を浮かべる。手を掴んだ男の表情に変化はなかったが、その胸の内では穏やかならざるものが波打っていた。

 女は死のうとしていた。病ではない。外傷でもない。ただ人としての寿命が尽きようとしているのだ。
 艶のあった黒髪は色を失い、瑞々しかった肌は皺を刻み、元気に走り回っていた体はもう床から起き上がることすら出来ない。どんな名医がどれだけ手を尽くそうとも助けることの出来ない――『時』と言う名の凶器。

 男に微笑みかける女の表情には、既に老いたとは言え、若かりし頃の面影がはっきりと見て取れた。男が初めて見たあの微笑み――顔を腫らし、歯が欠けながらも喜んだ、あの笑顔と同じものだった。
 あれからどれだけの年月が過ぎたのだろうと、男は思い巡らせた。たった50年にも満たない時だ。永い時を生きてきた、そしてこれからも生きていくだろう男にはほんの些細な、本当に短い時間。男の姿は50年で殆ど変わらないと言うのに、女の姿は目まぐるしく変わっていった。
 幼女から少女へ。少女から娘へ。娘から女へ。女から老女へ――


「…りん」
「はい」


 男が呼びかけたらすぐに返事が来る。そんな些細なことさえ変わっていないと言うのに。

 少女は老いた。しかし男は醜いなどとは思わなかった。どれだけ姿が変わろうが、りんはりんだ。外見が如何に変わろうと内面は全く変わらない。男が少女を傍に置くと決めた時そのものの。


「…りん」
「はい。殺生丸さま…」


 女はじきに死ぬ。今日か明日か。それとも今この瞬間なのか。男はとうに出来ていたはずの覚悟が揺らぐのを感じた。これから先の女がいない闇に心が震えた。
 死なせたくない。少しでも長く傍に置きたい。男の手を握る力の弱々しさが、そう望んできた全てを裏切るかのようだ。


「…あたしは、幸せでした」


 知らず、男の力強くなった。女は痛みを感じない訳がないだろうに、何もなかったかのように独白を続ける。


「あたしは、幸せでした。おっとうも、おっかあも、おにい達も、殺されてしまったけど。殺生丸さまと会えて、邪見さまと3人で旅をできて、とても幸せでした。殺生丸さまに会えて、本当に、とても、とても幸せでした」


 何故笑うことが出来るのだろうと、男は不思議に思う。
 男は女に優しく応えてやったことなどなかった。旅をしていた頃は男が原因で何度も危ない目にあった。好きと言われても応えてはやらなかった。それなのに何故幸せなどと言えるのだろう。何故男の傍にいようと思うのだろう。


「…でも、1つだけ」


 何故、りんは。


「…殺生丸さまのお嫁さんになりたかった。殺生丸さまの赤ちゃんを産みたかった。それだけが、心残りなんです…」


 女の眦が下がり、それでも口元は微笑んだままで。その言葉が本心から言っているのだと解り、男は小さく馬鹿が、と呟いた。

 もし女が男に抱かれていたならば。もし女が男の子を宿したならば。女はこれ程の長さを生きることは叶わなかっただろう。肌を合わせることによって男の強大な妖力に直接触れて、女は体を衰弱させていったことだろう。腹の中で男の血を継ぐ子を育むことで、体の内から弱っていったことだろう。
 それを怖れていたからこそ――女を少しでも長く傍に置きたかったからこそ、男は女に触れようとしなかったというのに。
 たとえ女が死に、女との子が残っていようとも、その子は女ではない。女との間に生まれた我が子と言えど、その子は決してりんではないのだから――

 男にも解っていた。これは男のエゴだ。
 女は男に何かを望むと言うことを殆どしなかった。たまに望んだかと思うとそれはいつも些細なことで、わざわざ望まなくても良いようなことばかりだった。だのにたった1つだけ、女が一番望んでいたことだけは叶えてやらなかった。男自身も切望することでありながら、決して叶えてはやらなかった。
 ただ少しでも長く生きながらせるためだけに。りんがいない闇が訪れる瞬間を少しでも延ばしたくて。


「…りん」
「はい…」


 男はあと何回その名を呼べるのだろう。


「りん」
「はい、殺生丸さま」


 女はあと何回その名を呼べるのだろう。


「…りん」


 この皺だらけの手は、いつまで握り返すのだろう。


「…はい」


 殺生丸が愛したりんは、いつまで。








行く末が見える恋の先は何処を目指す?



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