いつか君を優しく詠える日まで








 白と黒の鍵盤上を滑らかな動きで両の手が駆け抜けていった。
 簡素だが極上の質の品が備えられた一室で、一目で高級品だと知れるグランドピアノを弾く姿は典雅な淑女そのものだ。

 しかし旋律を紡ぐ手は深窓の令嬢のものとは言い難い。白色人種らしい色素の薄い肌だが日に焼けている。小麦色とまでは言わないが、令嬢と言うには適さないレベルだ。細く長い指はかなり鍛えられたもので、タコやマメこそ出来ていないものの、肌の一部が硬化している。
 それは彼女の趣味である体力作りの成果であり、彼女自身はマイナスと考えてない――それどころか誇らしくさえ感じているのだが、彼女の教育を任された母親代わりの女性は日々嘆かわしく思っている。

 それはともかくとして、鍛えられた手でも奏でられる音は軽やかで美しい。ウォームアップ用と思われる比較的簡単な曲を弾き続ける彼女は、とても楽しそうにしていた。  邪魔をしてはいけないと思って黙っていたアスランも音が途切れた機を見つけて声をかける。


「…カガリもピアノを弾けたのか」
「この位たしなみ程度だろ」


 こういうお稽古事は小さい頃によく習わされたんだ、と不満げな口調なのにピアノを弾く姿が見るからに楽しそうなのは、無理やり習わされた中で好きなことを見つけられたからなのだろう。
 たしなみ程度と言われてもアスランにはピアノの上手下手などわからない。専門的に突き詰めるなら音色から始まって、テンポ、音の速さ、ピッチ、音の強弱等、様々な要素があるのだが、明らかにそれと分かる間違いをしない限りは素人には上手いと感じるものだ。


「…ご免な」
「何がだ?」
「せっかく来てくれたのに放ったらかしで。お前、音楽は苦手なのにさ」
「ああ…」


 そのことか、とアスランは苦笑を浮かべる。


「いいさ。約束もなしに押しかけて来た俺が悪いんだから。
 カガリの方こそ、俺が観客じゃ張り合いがないんじゃないか?」
「…そうだな。少なくとももう2度と一緒にコンサートには行きたくないぞ」
「…」


 前科持ちのアスランは反論も出来ず、ただ曖昧に笑った。反面カガリはうんうんと一人で納得、立ててあった楽譜を開いた。目的のページをクリップで止めてすぐに閉じないようにする。

 やがてカガリが弾き始めたのは優しいバラードだった。
 とても優しい旋律だった。

 テンポはゆっくりとして、右の主旋律を奏でる指の動きは緩やかだ。左の伴奏を紡ぐ指も速い動きではないが、とても難しい移動をしている。緩やかだからこそかなりの技術で挑まなければ全体の雰囲気を壊しかねない難曲だ。


「…この曲――
「んー?」


 アスランは無意識にソファから体を起こしていた。緩やかな音の集合がアスランの琴線に触れたのだ。知っていると。
 俺はこの曲を知っている、と。


「まさか…、
 …カガリ、その楽譜を見せてくれるか?」
「え? 何だ急に…」


 戸惑うカガリから受け取った楽譜集には、「喪われた名曲集」とあった。アスランには作曲者の名前に覚えなどなかったが、解説に記されたあるピアニストの名前が。


「その曲を知ってるのか? 戦争で死んでしまった名ピアニストの得意だった曲を集めた本なんだけど、それ」
「…知っている」


 アスランは楽譜を譜面立てに戻した。彼の突然の変化にカガリが戸惑っているのは分かっているが、とても今の彼には平静を装う力など残っていない。

 今さっきのことのように甦る慟哭が彼を揺らす。

 知っている。覚えている。この曲は、この曲を弾いたのは――


「…ニコルが…」


 一度だけだった。アスランがあの少年のコンサートに赴いたのは。

 音楽は昔から苦手で、あの時も途中からうとうとしてしまった。後日ニコルに指摘されて笑い話にしたりもしたが、今では悔やんでいる。ニコルがたった15年の間に生み出せた大切なものを、どうして受け止めてやれなかったのだろうと。
 この曲はニコルが最後のコンサートで2番目に弾いた曲だ。1曲目がアップテンポな曲だったので急なギャップに驚いた記憶があった。確かパンフレットには初演と書かれてはいなかったか。

 アスランは目元を押さえた。涙がこぼれるかと思ったのだ。実際には涙目にもなっていなかったが、しかし…。

 …情けない。こんな所で。いくら不意にだったとは言え、もう1年以上も経っているのに。


「…すまない、カガリ」
「…何で謝るんだよ、お前は」
「邪魔を、」
「いいって、そんなの。…座れ。ちょっと落ち着けよ、お前」
「すまない…」


 カガリはアスランをソファまで戻らせようとはせず、自分の座っていたピアノ椅子を提供した。アスランは促されるままに座り、俯いてしまったために表情は見えない。カガリはアスランを無言で抱き込んだ。

 ニコルという名をカガリが聞いたのは2回目だった。アスランとの2回目の邂逅の時、キラを殺した、と泣いたアスランが叫んだ名前だ。


『あいつはニコルを殺した!』


 強く激しい声だったが、それに根ざした感情は憎悪ではなかった。
 キラへ向けられるのと同じ位――それ以上に自分に向けられた怒りと、後悔と、そして喪失の悲哀。

 カガリはニコルという少年を知らない。どんな性格で、どんな風にアスランと接していたのか、全く知らない。
 ただ1つ分かっているのは、アスランにとって大切な仲間だったということだ。

 アスランの様子とこの楽譜集のコンセプトから、アスランが急にこうなった理由は容易に想像できる。だからカガリは詮索しなかった。
 まだ傷の癒えていないアスランから無理に聞き出す必要はない。聞くべき時が来たら、或いはアスランが話したいと思ったなら、アスランの方から話してくれるだろう。


「…すまない…」


 その言葉は誰に向けられた言葉なのかはわからない。そして、それはわからなくていい。

 カガリはアスランを抱き締め続けた。
 少しでも傷が癒やされるように。


 この優しいバラードが、悲しい曲になってしまわないように。








どうか気付いて。
残されたものは悲しみだけじゃないと。



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