君のこと以外何も考えず、何も求めず。 ただ君を愛することだけが出来たなら。 遠く、呼ぶ声が聞こえた。 カガリは俺の肩に凭れかかって眠っている。読書をしていた筈だが膝の上の本は風にページが攫われていた。無防備な寝顔のあどけなさが彼女を実年齢よりも少し幼く見せて、それはとても可愛らしい。 「…カガリ」 「――んー…」 女主人を呼ぶ声は徐々にだが近付きつつある。カガリにはまだ届いていないようだがすぐに気付くだろう。俺はカガリの肩を軽くゆすった。小さく身じろぎをして、カガリはすぐに目を覚ます。 「起きたか?」 「あ…、――ああ、ごめん。寝てたんだな…」 「いや。それより呼ばれてるぞ?」 「え?」 カガリさま、と呼ぶ声はかなり近くなっている。カガリは時間を確かめて理由を察したらしい、わかった、すぐ行く、と叫んだ。同じ侍女の声ではい、と返事が聞こえてきた。すぐに立ち上げるかと思ったが、しかしカガリは膝の上の本に視線を移しただけで、なかなか動こうとしなかった。 「カガリ?」 「…うん。わかってる」 …わかってるから、と弱々しく呟いて、カガリはもう一度俺の肩に頭を預けた。 「…もうちょっとだけ。な?」 「…カガリ…?」 我侭じゃ、なかった。カガリの口元は微笑っていたが目は微笑っていない。むしろこれは、泣く時の… 「オペラ、観に行くんだ。今日は休みだからって誘われて…」 「…そうか」 「…」 カガリの目が見えなくなった。膝に置かれた手が震えている。 誰と、何て。言われなくてもわかる。 「…行きたくない」 「…そういう訳にもいかないだろう、カガリ」 「うん…」 いつでも強気で、前向きで。涙を見せることはあっても弱気を見せることは少ないカガリが下を向いている。俺に申し訳なさそうにして、俺を見ない。 …すまないと、言ってやりたくなった。だが俺が謝るべきことじゃないし、カガリもそんなものは求めていない。 むしろカガリは怒り出すだろう。どうしてお前が謝るんだといって。悪いのは私の方だと言って。カガリだって何一つ悪くはないのに。 「…せめて付いて行ってやれたらな」 「…うん」 俺が付いて行くなど、とても出来ない相談だ。ユウナ・ロマは俺を嫌っている。 …いや、嫌っているのとは違うな。嘲ているんだ。誰に気兼ねすることなくカガリの手を取れる立場から見下している。カガリの隣に立つことも、本当の名を名乗ることすらも許されない俺を。 何故あの男は理解出来ない。カガリがあの男の誘いを断らないのは『断れない』からだ。 カガリは代表首長と言っても実権は無きに等しい。セイラン家はウズミ様の亡き後勢力を増した首長家であり、今のカガリがセイラン家の庇護を離れるわけにはいかない。 だからユウナ・ロマの誘いも無下には出来ない。――それだけだ。カガリがユウナ・ロマを好きだからじゃない。――絶対に。 …近付けたくない。今すぐカガリを連れて行きたい。カガリはあの男を疎んじている。いつもいつも近付く度に身構えて嫌がっている。だから。 ――だから、それ以上に、俺は。 「…よし、充電完了!」 パァン、と小気味の良い音がした。カガリが自分の頬を叩いた音だ。勢い良く立ち上がったカガリは毅然としていた。いつもの表情だ。 強く前向きで絶望を知らない、艶やかな南国の花々のような。――皆が求める、『オーブの姫君』 「じゃ、行ってくる。少し遅くなっても夕飯は食べるって、マーナに言っておいてくれ」 「ああ、…わかった」 カガリの読んでいた本は俺が預かることにした。書斎に寄る時間はないだろうから。 これからカガリは身支度を始めるんだろう。そしてあの男に手を取られて出掛けていくんだろう。 ――これから、カガリは。 「…きるなら…」 「えー? 何だ、アスラン?」 「――いや、何でもない」 行って来い、と手を振ると、カガリはもう振り向かずに走っていった。 ――出来るならやってしまいたい。 何もかも捨てて、カガリだけと一緒に、誰も知らない場所に。 俺達を縛るもの全てを断ち切って、ただカガリだけを求めて。 ――カガリだけを、抱き締めて。 もしそれが――真実、出来たなら。 翼を持たない私たちは 大地から放れるすべを持たず、 ――大地から放れる意志も持たず。 |