月の海と金の






「さすがにこんな時間だと誰もいないか」


 今夜は満月、されど空は生憎の曇天。厚い雲が濃紺の空を覆い隠し、月と地表の仲を裂いている。
 防波堤から浜に下りた時に独り言のようにそう呟いてから、カガリは何も喋ろうとしなかった。およそ彼女らしからぬ表情で海を眺め、やがて波打ち際を歩き始めた。靴に砂が入るのも構わずに。


――


 アスランもまた、無言で歩き始めた。彼女のすぐ横ではなく、それでいて手を伸ばせば届く距離を保って。

 さく、さく。さく、さく。
 砂を踏みしめる音だけが耳に入る。
 今ここには誰もいない。いかにオーブが南国と言えども、海水浴の季節はとうに終わっている。一年を通して海に入るサーファーもこんな夜半までいるはずが無い。
 だから彼女のこんな姿は誰にも見られない。光のない暗い目も、感情を廃した頬も、意思のように硬直した唇も。
 もしかしたらキラでさえ知らないかもしれない、彼女の昏い一面。

 急にカガリが足を止めた。ぺたんと腰を下ろして、そのまま仰向けに寝転がる。靴を脱いで伸ばした足が波にかかったが、その冷たさにもカガリは表情を揺らさなかった。


――カガリ」
――うん」


 アスランはその隣に座り込んだ。カガリのように波に足は伸ばさない。ゆっくりと差し出されたアスランの手はガラス細工に触れるような繊細さで、カガリの頬に添えられた。
 アスランの手の熱に溶かされるように、ほんの少しだけ、カガリの頬が和らいだ。目を瞑って視覚を閉ざし、波の音と、海水の冷たさと、頬の手のぬくもりとに、五感の全てを集中させる。

 いつからだろうか。カガリがこの手を頼りにするようになったのは。
 とんでもない出会いをして、とんでもない再会をして。彼に対する印象はいつも「危なっかしい」だった。自分の身も省みずに馬鹿なことばかりする、私が付いてないと、ずっとそう思っていたのに。
 いつの間にか、カガリがこの手に守られている。辛い時には傍で慰めてくれて、駆け上がる時には一緒に走ってくれる。危なっかしいところは今でもあるけれど、カガリが「守る」存在ではなく、「共に守り守られる」存在になった。

 カガリが愛し、そしてカガリを愛する青年は、今もこうして、カガリの傍にいる。


 アスランは以前、カガリにすまないと謝ったことがあった。
 カガリが落ち込んでいる時、今のように沈み込んでしまっている時に、彼女を慰める言葉の一つもかけてやれないで、すまないと。

 その時のことを思い出して、カガリはくすりと笑った。
 そんなことないのに。何の言葉をくれなくても、こうして傍にいてくれるだけで、確かに救われ、守られているのに。
 カガリを大切に守り続けていながら優しくする方法が分からないと言う、その不器用ささえ愛おしい。


――アスラン」
「何だ?」


 ようやく開かれた金の瞳。その目には光が宿り、夜空ではなくアスランの姿を映していた。
 カガリは満面の笑みで想い人に手を伸ばす。


「起こしてくれ」
――は?」


 一瞬の戸惑い、そして呆れ。予想通りの反応にカガリはイタズラ心を満足させられる。何か言いたげな表情をしながら、それでいてアスランはすぐにカガリを抱き起こしてくれた。


「もういいのか?」
「うん。さすがに足が冷えてきたからな」


 子供が親に甘えるようにカガリはアスランにしがみつく。アスランもまた子供をあやすようにカガリの背をぽんぽんと叩き、カガリはくすくすと笑い声を上げた。
 月光すら届かない闇夜、カガリの視界を占めるのは紺青。曇天の向こうの空よりも深い青に包まれて、カガリはその幸せを享受した。








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