カガリが目を覚ました時、時刻は6時半を少し過ぎた頃だった。

 暖房が行き届いた室内はパジャマだけでも充分な程快適だ。それでもやはり窓側はガラス越しに外気が伝わってきて、他よりも冷えている。カガリは一度体を小さく震わせると、結露が付いた窓に触れた。
 窓の外はまだ真っ暗なのでガラス面がベッドサイドのライトからの光を反射してカガリの姿を映し出す。暗いガラスに映った暗い自分の目を通して見る早朝の闇は黒く、深く。全てを吸い込もうとする深淵に惹かれるかのようにその闇を凝視していたカガリだが、やがてガラスの虚像は消えた。








『その陽の下で想うことは』








 そのバルコニーは広大なアスハ邸で1番に日が昇る場所だった。遮るものがない場所で自由に奔りまわる寒風に震えながらも、カガリはその場所に立っている。
 パジャマに厚手のカーディガンを羽織っただけの姿では、体を冷やすどころか風邪をひきかねない。カガリにも自分が馬鹿なことをしている自覚はあった。指先や足先どころか全身が凍え、冷気は突き刺すように襲っている。今すぐ屋内に逃げ込みたいと思う気持ちも大きかったが、しかしカガリは動かなかった。屋内に入ってしまえばここに来た意味がないし、今から上着を取りに行っては間に合わない。
 寝室を出たときには真っ暗だった空が、今はほのかに白めいてきていた。真正面に東を向いた手すりに手をかけ、カガリは身を乗り出して空を見る。海の果ての水平線は朱色に染まろうとしていた。

 もう少しだ。

 手すりを握る力が自然と強くなる。既に感覚が失われた指は、冷気の代わりに痛覚を彼女に与えた。痛いと思いはしても彼女は気にしない。ただ目の前の光景を、1年で最初の日が昇る瞬間を、食い入るように待っていた。
 そしてついに、朱なる陽光が姿を現した瞬間。


「カガリ」


 背後から呼びかけられた声に、彼女は振り向いた。




 まさか、と思った。
 でも、とも思った。
 ここは2人だけのお気に入りの場所で、私達がここでこんな風に新年を迎えることはマーサだって知らない。
 だからもしかしたら、って。
 こんな所で会える筈がないって、解っているのに、それでも。
 優しさと愛しさと、それから少しの厳しさが込められて言われた名前に期待して、私は振り向いた。




「…キラ…」
「おはよう。…あ、新年明けましておめでとう、だね」


 それにしても寒いね、と呟きつつ、キラはカガリへと近付いて来た。
 キラの格好は青地のセーターに白いスラックス、それに薄手のパーカーを羽織っているものだった。カガリよりはかなりマシとは言え、それでも夜明け直後の1番冷える時間には辛すぎる服装だ。パジャマとカーディガンだけ、と言うカガリの格好を見て、キラは何しててるんだよ、と口を尖らせた。


「カガリがいなくなったって、マーナさん達が大騒ぎしてるよ? それにこんな格好で…風ひくじゃないか。ほら、早く中に…」
「…キラぁっ!」


 キラの言葉など耳に入っていないのか、カガリは飛びつくようにキラに抱きついた。せめて自分のパーカーだけでも着せようと脱ぎかけていたキラは突然のことに倒れそうになったが、何とかたたらを踏んだだけでこらえることが出来た。
 何の脈絡もなく理由もわからない抱擁だったので、キラはカガリの顔を見ようとした。しかしカガリはキラの胸にしっかりとしがみついているのでその表情は見えない。それでも小さくしゃくり上げている様子から、震えているのは寒いからだけじゃない、ということだけは分かった。


「カガリ…?」




 わかってた。
 もう会えないことも、もうあの声で呼んでもらえないことも。嫌になるくらいに解ってた。
 だって別れてしまったんだ。あの時、あの場所で。私はただ泣きじゃくるばかりで、大切なことは何1つ言えなかった。
 私も幸せだったと、…愛していると。あの時に伝えなければいけなかったのに。

 もう二度と会えない。




「…うさまと…いっしょ…」


 どうして一瞬でも期待してしまったんだろうと、カガリは泣きながら笑った。


「この日…初日の出、だけは…一緒に…っ」


 カガリへの深い想いを同じように含んではいても、キラとウズミの声は全く違う。キラの声の方がより高めだし、ウズミの声には壮年の男性が持つ深い思慮がある。間違いようのない2人なのに、それでもカガリは期待してしまった。

 父との毎年の習慣、父とだけの毎年の約束。
 もう父はいないのだからと、今年はするつもりはなかった。しかしカガリは目を覚ましてしまった。夜明け前、毎年起きていた時間に。そして行くつもりのない場所へと足は進み、1人で迎えようとした時に声を掛けられた。
 お父さまと、声にはならずとも確かに唇は動いたことに、キラは気付いたのだろうか。

 ポン、ポンとリズミカルにカガリの頭を撫でる手は優しく、暖かい。服越しに伝わる熱に溶かされるように溢れる涙が、カガリの頬を濡らした。




 お父さまはいつも忙しくて、年末でも年始でもお構い無しに仕事をしていた。
 純粋に1日中休める日なんか無くてとてもお疲れなんだろうに、それでもこの日だけ。私と一緒に日の出前に起きて、この場所に立って。一緒に太陽が昇るのを待った。
 寒くて冷たくて、だけどその後の太陽が出てくる瞬間は本当に綺麗だ。

 毎年毎年見ていた。去年も一昨年も、今年も来年も見るものだと思っていた。
 もう一緒に見られなくなるなんて夢にも思っていなかった。
 それなのに――




 ひとしきり泣いた後にカガリは勢いよく顔を上げた。冷えた唇が紫に変色しているし、泣きじゃくったお陰で目は腫れて真っ赤になってしまっている。とても綺麗とは言えない姿なのに、キラを見上げる目は強く、晴れ晴れしい輝きだった。


「…よし、もう大丈夫だからな!」
「…うん。じゃ、もう中に入ろうか。太陽も昇りきっちゃったみたいだし」
「えっ? 本当か!?」
「うん。ほら」


 慌ててカガリが振り返ると、そこには水平線の彼方に浮かぶ真円の太陽。日が出る瞬間だけは見たのだが、その後はずっとキラにしがみ付いていたために見られなかったのだ。
 仕方が無かったとは言えやはり不満が残るのか、カガリはむう、と口をへの字にする。その様子がいかにも普段の彼女のものだったから、キラは口の端に笑みを刻んだ。


「…来年は一緒に見ようか、カガリ」
「…え?」
「初日の出をここでさ。ね? 何ならアスランとラクスも誘って」
「あ…」


 カガリの脳内で、即座に来年の情景が浮かび上がる。

 皆で日の出前に起き出す。キラは意外と寝汚いところがあるから、カガリやアスランに叩き起こされることになりそうだ。風邪をひかないようにきちんと着込んで、このバルコニーにやって来る。その瞬間までの冷たい時間も、4人でいればかなり違ったものになるだろう。寒くても楽しい、優しい時間になるだろう。
 そして陽光が差し始めると皆で食い入るように見つめるのだ。新しい年を迎える瞬間を4人で共有し、誰よりも早くおめでとうと言う。
 ウズミとはまた別の、しかし同じ様に素晴らしい時間となるに違いない。

 カガリは今から待ちきれないと言った仕草で腕を振り上げ、期待に目を輝かせた。


「うんっ! しよう、絶対にしよう! 約束だぞ!?」
「うん、楽しみだね」


 キラは笑い、カガリも笑った。ついさっきまで父のことを想って泣いていたのにもう笑っているのが何だか可笑しくて、カガリの笑みが深くなる。
 そして、不意に思い出す父の言葉。




『父とは別れるが、お前は独りではない……』

 はい、お父さま。
 あなたと別れたのはとても辛く悲しいことだけど、私には私を支えてくれる人が沢山います。
 キラもアスランもラクスも、キサカもマーサも。皆優しくて厳しい、私の大切な人達だ。

『きょうだいも、おる……』

 結局キラとはどういう経緯で生き別れになってしまったのかはまだ分らないままだ。だけどそんなことはどうでもいい。
 キラは私のきょうだいで、とても大切に想っている。キラも私を大切に想ってくれてる。それだけでいい。それだけで充分だ。

『そなたの父で、幸せであったよ……』

 私もとても幸せでした。そして今も、幸せです。
 お父さまはいないけれど、お父さまの残してくれた大切なもの、自分で手に入れた大切なものが沢山あるから。
 もう会うことは出来ないけれど、もう言葉で伝えることは出来ないけれど。

 私は――カガリ・ユラ・アスハは、お父さまの娘であることを誇りに思っています。




「ほら、カガリ。冷えるから。せめてこれだけでも着なよ」


 やっと屋内に戻ろうと足を踏み出したカガリに、キラが上着を差し出した。しかしカガリは、いや、と首を振る。


「いいさ。どうせもう中に入るし」
「でもそんな薄着だと風邪ひくよ? 女の子なんだから体を冷やしちゃ駄目だって」
「それを言うならお前もだろ。女は男より頑丈に出来ているんだ。キラが着てろよ」
「僕は大丈夫だって」
「お前の大丈夫は当てにならない」


 ふん、とカガリは口を尖らせた。
 最初にヘリオポリスで出会った時、オーブでアラスカへ向かうアークエンジェルを見送った時、先行したフラガとディアッカを追ってメンデルの内部へ入っていく時、戦争を止める、最後の戦闘の時。いつもいつもキラは皆に心配をかけて、いつもいつも無茶をしてきた。だからカガリの言い分もあながち間違いではない。
 しかしだからと言って、キラもそう簡単に引き下がるはずもなく。


「それを言うならカガリだって。お姫さまの癖にどれだけ無茶なことをしてきたと思ってるんだよ」
「うるさいな。お前は弟なんだから姉の言うことに黙って従え!」
「弟だなんて決まった訳じゃないだろ」


 むっとして口走った言葉で、売り言葉に買い言葉。最初の上着の話は何処に行ったのやら、2人の舌戦は続く。


「いーや、弟だ。そうに決まってる。お前みたいに危なっかしい奴が私の兄でなんかあるものか」
「カガリだってそんな短気な姉もおかしいじゃないか。少なくともお姉さんっていうのはしっかりしているものだろ」
「私の何処がしっかりしてないって言うんだ!?」
「全部。すぐ怒るし、即断即決即実行だし。もう少し思慮ってものを身につけないとね、カガリは」
「生意気なことを言う口はこれか? この口か!」
「わっ!? あにするんだよ! こーゆーことが短気だって…」
「えーい、うるさい!」


 結局キラの上着はどちらにも着られることはなかった。バルコニーから中に入ろうとする直前にマーナに見つかってしまい、カガリはマーナが持ってきていたガウンを無理やり着せられてしまう。
 とにかくお部屋で暖まって下さい。お説教はそれからですよ、と睨まれてカガリは渋面を作るが、自業自得と言ってしまえばそれまでなので諦めることにした。

 バルコニーのドアをくぐろうとした瞬間、もう一度カガリは振り向いた。毎年ウズミと一緒に一年で最初の陽光を浴びた場所に目を向ける。
 去年までは楽しかった場所、今年は寂しく悲しかった場所。そして――


 来年からはきっと、また楽しい場所になるのだろう。









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