ベイビーベイビビ
アイラービュー
婚約編
こんなに静まり返った我が家は初めてで、不気味だ。
誰もいないから、じゃない。今家には父さんと母さんと私、そして弟の全員がいる。それなのに家全体が静まり返っている。母さんが台所で水仕事をする音が不自然に響く。
…家全体、じゃないな。うちだけじゃない。隣もだ。お隣の、家族同然にお付き合いしている、ゾエさんちも静かだ。
お隣が静かなのは今誰もいないからだ。おじさんもおばさんも、ハンちゃんも、全員がいない。全員が病院にいる。1人はベッドに。2人はその付き添いに。ずっと。
「…おはよ、母さん」
「おはよう。もう昼前よ?」
「寝付けなくてねー。朝方まで起きてた」
「それで昼まで寝てたらダメでしょう」
「ごめんって。…リヴァイは? まだ部屋にこもってるの?」
「…ええ」
まるでお通夜だ。…縁起でもない。誰も死んでない。死ぬような怪我はしていない。危ない状態になんてなってない。念の為経過を見ていただけで予定通り明日退院すると聞いているのに。
明日にはあの子が帰ってくるのに。
「…バカリヴァイ」
私の愚弟はいつまで閉じこもったままでいるつもりだ。
ここから先は、聞いた話だ。私はその場にいなかったから。
一週間ほど前。幼稚園のお散歩で、クラス全員と付き添いの先生たちで近くの公園に行った。遊具で遊んだり広場で追いかけっこをしたり。普段園庭でしているのと同じ遊びでも場所が変われば全然違う気分で楽しめる。友達と鬼ごっこをしていたハンちゃんがふと樹の傍で立ち止まると、上の方からちちちって高い声が聞こえた。
「…とり?」
何か動くような影は見えるけれど、逆光ではっきりと見えない。見たい、とハンちゃんは思った。思ってしまった。もっと近くで見たい、その為にはどうしたらいい?
「なっ、ハンジちゃん!? 何してるの、下りてきなさい!」
それは公園で1番大きな樹だった。高さ2メートルよりも下には足場になるような枝がない大木なので、普通なら大人でも登ることはできないのだけど。ハンちゃんはまず少し離れたところにあるフェンスに登り、そのフェンスから樹の枝に飛び移るという離れ業をやってのけた。
当然、先生は血相を変えて止めに来る。だけど足場がないから登って追いかけることはできない。フェンスから飛び乗ったというのも後で見ていた友達から聞き出したことで、先生は思いつきもしなかった。
「やだ! 上のほうにね、とりのすみたいなのが見えるんだ。どんなとりか見てくる!」
「見てくるってそんな、ハンジちゃん!?」
先生と同級生とが大木に駆け寄る。下りてきなさいと言ってもするするとハンちゃんは登っていく。その時すでにハンちゃんは地面から3メートル以上の高さに登っていた。先生が下から受け止めるにしても危険な高さだ。
「せんせー、リヴァイがー!」
「え? リヴァイ君が何…きゃああああ!?」
それを追いかけたのが、いつもの如く私の弟・リヴァイだった。ハンちゃんと同じルートを辿って同じ樹に辿り着いた。ハンちゃんだけでもとんでもないのに更にもう1人。先生の心中はさぞ阿鼻叫喚だったに違いない。弟妹がほんとすみませんでした。
「ハンジ!」
「わわっ、リヴァイだ」
連れ戻されると思ったハンちゃんは更に上に登った。リヴァイも追いかけた。
「なにやってんだこのばか!」
「ばかじゃないもん、とりさん見たいだけだから!」
「だけだからじゃない!」
怒鳴るリヴァイと逃げるハンちゃん。上に上に逃げようとしたハンちゃんは追いつかれまいと焦ってしまって、そして――
「…わああああああ!?」
「っハンジ!!」
――結論から言うと、2人とも落ちた。上から落ちてくるハンちゃんを庇う形でリヴァイが下敷きになったけど、怪我をしたのはハンちゃんだけだった。リヴァイは軽い打撲だけだった。いくら落ち葉が絨毯になったとは言え、3メートル以上の高さから落ちて打撲だけで済んだのは奇跡だって医者は言った。リヴァイに庇われたはずのハンちゃんは、どうやらリヴァイの所まで落ちてくるまでに枝に頭をぶつけたらしく、後頭部に5針を縫う怪我を負った。場所が場所だから脳内出血の危険もあると、数日間意入院することになった。
「どうして…っ! どうして!? あなたが見てくれてたのに、どうして守ってくれてなかったの!?」
ハンちゃんのお母さんは半狂乱になって弟にそう叫んだ。ハンちゃんのお父さんはやめないか、と止めてくれた。
土台、無理な話だ。いくらリヴァイが子供らしくなくて普段からハンちゃんを守ろうとしていても、幼稚園児が幼稚園児を完璧に守ってあげるなんて出来ない。樹から落ちてくるハンちゃんを受け止めて無傷で着地させるなんて、大人だってそうそう出来ることじゃない。
あなたのせいじゃないから、と父さんと母さんは言った。あなたが受け止めてあげられたから頭の怪我だけですんだのよ、あなたがクッションになってあげられなかったらもっと酷い怪我になってたかもしれないわ、と弟を慰めた。
だけどリヴァイにその言葉は届かなかった。今までずっとハンちゃんと一緒にいて、危ないことをしたら守ってと、リヴァイにはハンちゃんを守り支えているんだという自負と矜持があったのだろう。それが粉々に砕かれた。守ってあげられなかった。それはどれだけの無力感で、どれだけ弟を追い詰めたのだろう。
「…ごめんなさい」
ハンちゃんのお母さんに、そして未だ眠ったままのハンちゃんに、弟はごめんなさいと言った。
守ってあげられなくてごめんなさい。
リヴァイのこんなに弱々しい言葉を聞いたのは後にも先にもこの時だけだった。
ハンちゃんのお母さんは落ち着いたらすぐに弟に謝った。
「酷いことを言ってごめんなさい。我を忘れていたにしても、私…」
今にも土下座しそうな勢いで頭を下げるおばさんに、リヴァイはいいから、と許した。
「…気にしてないから。だいじょうぶだ」
「リヴァイ君…」
気にしていない、はずがない。その証拠に、リヴァイは一度もハンちゃんのお見舞いに行っていない。
幼稚園には通っているけれど通っているだけ。ハンちゃん以外の友達もいるのにその子達とはしゃいで遊ぶこともしていないらしい。家に帰ったら部屋に閉じこもって、ずっと静かで、倒れてるんじゃって心配になって押しかけたくらいだ(※うるせぇって言われて速攻追い出された)。
気にして気に病んで、もしかしたらもうハンちゃんと一緒にいる資格がない、なんて思いつめてるんじゃないか。心配しつつも何もしてあげられることもなく、ハンちゃんの退院を待つしかない状態だった。
階段を登る音で私が帰って来たって気付いたんだろう、2階に登ったら、廊下にリヴァイがいた。閉じこもりきりだった弟が出てきていた。
「リヴァイ?」
「ハンジの退院、明日か?」
「え、うん。そう聞いてる」
食事時以外に顔を合わせるのって何日ぶりなんだろう。今朝のご飯の時に会ってるんだからそんなに何日も会ってないわけじゃないのに、リヴァイと会うのがひどく久しぶりな気がした。…何だか顔つきが変わっているような、そんな気がした。
「明日の午前中に退院するって言ってたよ。手続きがあるから帰ってくるのは11時くらいかな」
「…迎えに行ってくる」
「そう? じゃ、私も付き添い」
「1人でいい」
「良くない」
じゃあ早めに、10時半には病院に着いておこうねー、と軽い調子で言ったのだけど、内心で私は小躍り状態だった。見舞いに行かなかったのは、リヴァイなりに反省する時間が欲しかったということらしい。どうやらハンちゃんから離れるつもりはないようだ。
(よーしよし一安心!)
私だって幼馴染だからってだけでいつまでも無条件にべったり仲良しでいられるとは思ってない。いつか成長したらリヴァイとハンちゃんが離れてしまうかもしれないって分かってる。それでも、こんな形で離れるのは絶対に嫌だ。
…勿論、理想はリヴァイとハンちゃんの結婚なのだけど。可愛い可愛い妹分が本当の妹になるなんて超ウルトラスーパーデラックスに幸せじゃないか。だけどこればかりは当人の問題だからなぁ。お姉ちゃんは後押しする気満々だけど、本人同士が惚れ合わないとどうにもならないし。
翌日の朝、予告通りに病院までお迎えに行った。手続きの邪魔をしてはいけないからとロビーで待っていると、病室の方からハンちゃんとおばさんが歩いてくるのが見えた。ハンちゃんは私達を、正しくはリヴァイを見つけると、そりゃあもう笑顔満開で走り出したのだった。
「リヴァーイ!」
「ばか、はしるな!」
「んふふー、リヴァイだー。リヴァイーリヴァイー」
ハンちゃんは相変わらず人の言うことを聞かない。ダッシュで駆け寄ってリヴァイに抱き付いて、一週間ぶりの再会を全身で喜んでいる。ハンちゃんを抱きとめたリヴァイも普段のようには口うるさく言うことなく、ぎゅっとハンちゃんを抱き締めて再会をかみ締めているようだった。
「お迎えありがとう、2人とも。さ、ハンジ。お車に行きましょ?」
おばさんが促しても中々2人は離れようとしなかった。会わなかった1週間を取り戻すように、ぎゅっと抱き締めあっていた。
「ハンジ」
「んー、なに?」
「けが、のこるのか?」
駐車場に向かって歩いてる最中(勿論リヴァイとハンちゃんは手を繋いでいる)、リヴァイが尋ねた。縫った頭の傷のことだ。リヴァイは死んでしまいそうな顔で、反対にハンちゃんは気にしていないようにケロっと答える。
「のこるみたい。でも、あたまの中だし。分かんないよ、リヴァイ」
「…そっか」
「そうだよー」
だから気にしないでねー、とハンちゃんは笑いかける。
「わたしがあぶないことしたからわるいんだし。リヴァイはまもってくれたんだもんね」
「…」
「リヴァイ、ありがと」
満開の笑顔でハンちゃんはお礼を言う。ぎゅ、とリヴァイはハンちゃんの両手を握り締めた。2人は向かい合って立ち止まる。どうしたの?と首を傾げるハンちゃんに、リヴァイはとてもまじめに、とても真剣に、人生最大の告白をした。
「せきにんはとる。おれの嫁になれ、ハンジ」
いやね、ほんとね、褒めて欲しいのよ。私のこと。
「ぶっひゃははははははは責任って! 責任ってあんたマジか園児の分際で! マジだなマジで言ってんだよなーそうだよねあんた本っ当にハンちゃんのこと大好きだもんねーあひゃひゃひゃひゃひゃサイッコー!」
と大爆笑したいのを死ぬ気で押さえ込んだのだから。弟の一世一代の大舞台をぶち壊しにしたらどれだけ恨まれるか。地味に気長に延々と復讐されるのも嫌なので、お姉ちゃんは黙って2人を見守り続けるのだった。
突然のプロポーズにハンちゃんはきょとんと首を傾げ、そして答えてくれた。
「…よめ? リヴァイのお嫁さん?」
「そうだ」
「うん、なる。わたしリヴァイのお嫁さんになるよー!」
ああ可愛いなぁ未来の義妹は。ぴょんぴょんとあまりの嬉しさに飛び跳ねるハンちゃんがもう可愛くて可愛くて仕方ない。グッジョブだ愚弟よ、お前は今最高の仕事を成し遂げた!
「お、お嫁さん!? ハンジあなた何を言って…!?」
ハンちゃんが叫んだので前を歩いていたおばさんも気が付いたらしい。慌てて戻ってきた。
「リヴァイが怪我の責任を取ってお嫁にもらうんですって、おばさん。かわいいですねー」
「そ、そうなの…? あらあらまぁまぁ…」
「…しあわせにするからな」
「うん!」
幼稚園児のプロポーズなんて本気で叶えられると思ってないんだろう、おばさんは微笑ましい目で2人を見つめている。ハンちゃんはリヴァイだいすきー!な子なので純粋に喜んでいる。そして我が愚弟は、この時に本気で絶対にハンちゃんと結婚すると決意したのだ。
(…もしかしてハンちゃんのお見舞いに行かなかったのって、反省してたってのもあるだろうけど、このプロポーズの為に決意を固めて根性を入れてたからじゃないよね?)
この弟ならあり得ない話じゃないなぁ…と思うものの、さすがに確かめる気にはなれない。
リヴァイとハンちゃんはまだ6歳、2人が結婚できるまで最低で12年。この先2人が結婚するのはもう確定した未来として、さてはて、2人の恋愛模様はどのように展開していくのか。2人を見守る出歯亀お姉ちゃんは楽しみで仕方がないですよ。