ベイビーベイビビ
アイラービュー
サクラサク編
麗らかな春の朝――と言うにはまだ肌寒いのだけど。一応暦の上では春ってことになってるから春ってことにしておいてプリーズ。春だから眠くて当たり前なのだ、お布団に包まって惰眠を貪るのは自然の摂理なのだ――
そんな私の幸せは、お隣からの絶叫で打ち砕かれた。
「リヴァーーーーイ! どーゆーこと下宿に入るってーーー!!」
ばんっとガラス戸が叩きつけられる音。どたどたっと慌しい足音。そして我が家の居間のガラス戸も叩きつけられたらしい。がしゃん!って凄い音だ。子供なのに怪力だねーハンちゃん、なんて感心してる場合じゃない。慌てて布団から飛び起きた。
「どーゆーこと!? 私聞いてない! なんでそーゆーこと勝手に決めるのー!!」
「ああ? …言ってなかったか?」
「聞ーいーてーなーいー!」
居間に駆け下りると、正にハンちゃんがリヴァイの首根っこを掴んで糾弾している場面だった。何だかいつかの再現をしてるみたいだなー。ほらリヴァイがハンちゃんに何も言わないで合宿に行った夏。あの時もハンちゃん、リヴァイのばーかって拗ねたんだよね。今は拗ねるって言うか怒ってるけど。ハンちゃんも強くなったようで何よりだ。
で、だ。もう1ヶ月も切ったリヴァイとハンちゃんの中学入学で、リヴァイが入学と同時に学校の下宿に入ることにしたのを親経由で知ったハンちゃんが怒鳴り込んできている図、なのですね。…また言ってなかったのかよ、リヴァイ。お前本当にハンちゃんのこと好きなの? 好きな子と離れ離れになるのに平気なの? 何考えてるんだよ愚弟。
「なんで下宿なんて入るの!? 家からでも充分通えるのに!」
「下宿からの方が近いからに決まってんだろ。つかうるせぇ。言い忘れてただけだろうが」
「だけ!? だけってなんだよリヴァイのばかー!!」
ハンちゃんに丸っと同意。ハンちゃんはもう見事に涙目だ。拗ねるより怒る方に進化した分強くなったなーってさっき言ったけど全然そんなことなかった。ぐちゃぐちゃの感情を怒ることで発散させようとしてるだけだ。勿論失敗してるんだけどね。今にも泣き出しそうで、そんなハンちゃんを分かってるだろうに、愚弟は鬱陶しそうに首を掴むハンちゃんの手を外しにかかっている。ハンちゃんは外されまいと更に力を入れて握りこむ。まるで今離したらもう手が届かなくなると思っているようだった。
「…何で家なんか出るんだよ。リヴァイのばか。下宿ってうちから遠いんだよ? クラスも離れるかもしれないんだよ? なのに何で…」
私と離れてもリヴァイは平気なの。
その程度にしか思ってくれてないの。
泣いてしまっているんだろうか。ハンちゃんは俯いてしまって、私のところからではどんな顔をしているのか見えない。諸悪の根源はハンちゃんの手を外すのを諦めたようで、べし!と良い音を響かせてハンちゃんの頭を叩いた。この鬼め。
「いたい!? 何するんだよばかー!」
「うるせぇっつってんだろ。言い忘れてたのは悪かった、けどな、ならお前も下宿に入りゃいいだけの話だろうか」
「…へ?」
ぽかん、とハンちゃんの全身から力が抜ける。しがみ付いていた手もぶらんと下がった。一度は外そうとした手を、今度はリヴァイが掴む。自分は離すつもりなんかないんだと言うように。
「部屋は余ってたから、今から申請しても入れるんじゃねぇの」
「…そっかー! そうだね、私も入ればいいんだ! 学校に近くなるし!」
目から鱗、棚からぼた餅。ぴょんぴょんと跳ね上がった勢いそのままハンちゃんは自宅へと戻っていった。自分もリヴァイを追って下宿に入るために、おじさんおばさんを説得しに行った。
一方、残されたリヴァイはと言うと。ハンちゃんが乗り込んでくる前に読んでいた雑誌に戻ろうと脇に手を伸ばそうとしたが、一足先に私がそれを奪い取った。
「おい」
返せと言われても無視だ、無視。話を付けるまでは絶対に返さない。
「あんた、本気でハンちゃんと結婚するつもりなの?」
「…ああ?」
ハンちゃんが私も入ると言い出した時のリヴァイの顔は。ハンちゃんは自分でいっぱいいっぱいだったから多分気付いていなかっただろうけど、あの時のリヴァイは確かに。
「ハンちゃんが自分について来てくれるか試したんじゃないの、リヴァイ」
下宿に入ると言い忘れてた、それは本当かもしれない。だけどその後の「お前も入ればいい」発言はわざとだ。ハンちゃんが自分と離れたくないと思っているのか、離れそうになったら追いかけてきてくれるのか、試した。
あくまで知りたかったのはハンちゃんの気持ちで、何も本気でハンちゃんと一緒に下宿に入りたくて誘導したつもりは無いのかもしれないけど、それでも結果は同じだ。進学という大きな環境の変化で変わってしまうかもしれない2人の距離を離したくないと、自分の傍にいつまでも居て欲しいと思って、ハンちゃんも同じなのか知りたいと思った。素直に「俺の傍にいろ」って言ったらいいものを、そうしたらハンちゃんは「あ、うん。分かった」って素直に答えてくれるものを、何て回りくどい――クソ腹の立つことをやってくれる。
ハンちゃんが怒り、ついて行くと即決した時。リヴァイは確かに笑った。心底安心したと、ハンジは俺のものだと言うような満ち足りた顔で。
ハンちゃんの想いを試すなんて傲慢な真似をしておきながら、ハンちゃんが本当に自分を選ぶかの確信は持てていなかった。だから選んでくれて嬉しかったと安心して笑ったのだ、このクソ愚弟は。
なんて傲慢で、なんて我侭で、なんで――こんなにもハンちゃんが好きなんだ、こいつは。
「…」
リヴァイは答えない。こいつはいつもそうだ。私がハンちゃんのことを話題にする時は大半がリヴァイをからかう時で、最初はムキになって反論してきてたけど成長するにつれ無視を決め込んでくるようになった。反応がなくて面白くなーいと思っていたけどある意味自業自得、最近はからかうことも減ってきていたのだが。今日ばかりは無視させたままではいられない。今日はからかうつもりではないのから。
「一応、お姉さまからの忠告だけどね。
幼馴染だから。昔結婚の約束をしたから。それだけの理由で決めるのは馬鹿極まりないわよ」
リヴァイは無言のまま、私の方を見ようともしなくなった。私は奪い取った雑誌を放り投げる。リヴァイの正面に回って胸倉を掴み上げる。さっきハンちゃんがやったのと同じように。
「何度も言うけどね。ハンちゃんの頭の怪我はあんたの責任じゃない。あの時のプロポーズ自体が不要だったんだよ。分かってるでしょ?」
「…」
「下宿に入るって言うからハンちゃんと一旦距離を置こうとしてるんだって思ってたんだけど、そうでもないみたいだし?」
「…るせぇ。お前に口出しされる謂れはねぇよ」
「あるよ。姉だもの。
ほんとにあんたがハンちゃんを好きで、ハンちゃんもあんたが好きで、それで結婚するならもちろん理想的だわ。そうなって欲しいと思ってるよ。
だけどね、それに縛られるようなことにはなって欲しくない」
昔の約束に縛られて、自分はハンジが好きなんだと思い込んで、本当は好きじゃないのに思い込もうと、――そういう恋人同士も存在しない訳じゃない。その思いは家族への親愛でしかなかったのに恋愛感情だと思い込み、そして破綻する。家族にも戻れなくなる。リヴァイとハンジにはそんな風になって欲しくない。
「ねえリヴァイ、あんた本当にハンジと結婚したいの?」
好きなら本当の意味で惚れ合って欲しい。男女として惚れられないなら家族として仲良くいて欲しい。リヴァイとハンジの2人が大好きだから、2人が決定的に破綻するようなことにはなって欲しくない。そう願うのは、姉として当然の思いでしょう?
「…てめぇ、何か悪い物でも食ったのか? 真面目に話されるなんざ気色悪ぃ…」
胸倉を掴んでいた手はあっさりと離された。こいつの力はとっくの昔に私より強くなってる。さっきハンちゃんの手を振り払うなんてもっと簡単だったはずだ。なのにハンちゃんの手は力任せに外そうとしなかったのは。
「縛られてるつもりはねぇよ。これでも考えることは考えてる。ハンジの方は知らねぇがな」
「…ハンちゃんはそんなこと思い付きもしないでしょ。リヴァイだいすきーって昔からずっと一直線じゃない。あーこの果報者。愚弟の分際であんな可愛い子に好かれるなんて生意気ー」
「喧しいクソ姉貴」
あ、姉貴って言われたの久しぶりだ。いつもおいとかお前とかばっかりだったもんなーひどい弟だこと。
「にしても、気色悪いって何よ気色悪いって。弟と妹の将来を案じる心優しいお姉さまに何たる言い草か」
「普段の言動が悪すぎんだよ」
さっき投げ捨ててやった雑誌を拾って、リヴァイは居間から出て行った。ハンちゃんが開けっ放したままのガラス戸から入る春の風はまだ寒い。暦の上では春でも本当の意味で暖かな春がやってくるのはまだ先の話だ。
――今はまだ寒くても日が過ぎたら必ず暖かな春が来るように。幼くて可愛らしいだけだった弟妹の恋も、いつか春のように芽吹き咲き誇る日が来るんだろうか。
さて、いよいよ入学式を明後日に控えた4月某日。リヴァイとハンちゃんのお引越しが同日に行われた。
当日管理人室でもらった設備利用案内と部屋番号のタグの付いた鍵に、弟の顔は見事なまでに崩れ去ったのでした。
「待て。何で隣なんだ。おかしいだろ」
リヴァイとハンちゃんの部屋番号はお隣同士。部屋割りを見ても間に怪しげな開かずの間は無い。どー見ても壁一枚隔てた向こう側、どー見てもお隣さん同士だ。
「今年の1年で最初から入るのってリヴァイと私だけなんだって。新入生を固めて管理しやすいようにしたんじゃないの?」
「別におかしいことはないでしょ。ハンちゃんの言うとおりじゃないの? そりゃ管理側は管理しやすいように部屋割するわな」
「だからって何で隣なんだよ!?」
まー、リヴァイの言いたいことは分かるわ。普通男女で棟を分けるもんじゃないのかとか、同じ建物なら階で分けるんじゃないのかとか、そういうことでしょう。普通の単身向けマンションでもその辺苦慮するらしいし。学生向けマンションなら尚更分けるらしいね。女性専用マンションとか結構聞くわ。
「何、リヴァイ。あんたハンちゃんと隣が嫌なの?」
「…」
「まぁねー、あんたの苦悩も分からないではないわ。夜中のうにゃうにゃする物音が聞かれでもしたら自殺モノよねー」
「やかましい黙れクソ姉貴」
「大丈夫よリヴァイ、壁がベニヤで有名な某マンションじゃないんだから。そんな心配はないって、ね?」
「余計なお世話だ黙れむしろ死ね」
「お姉さまに向かって何たる口の利き方か。ほら、こんな差し入れまで用意してあげたと言うのに!」
ぽん、とリヴァイの手に置いたのは、所謂「友情の差し入れ」である。要するに薄いゴム製のアレ。私はリヴァイの姉であって友じゃないけど、細かいことは気にするな。あ、勿論夜中のうにゃうにゃ辺りからハンちゃんに聞こえないように小声だし、渡す時も見えないようにこっそりと、ですよ。
「…お前死ね。本気で死ね。その首ねじ切らせろ頼むから」
「あっははははは、ごめんだね」
私にはこの2人を出歯亀するという使命があるのだ、こんなところで死んでたまるかっつーの。
…そういや、我が弟のオカズ事情ってどうなんだろうね? さすがに弟のベッドの下を漁ったことは無いから、どんなエロ本を嗜んでるのか知らないわ。世の中には惚れた女じゃないと反応しないとゆー純情小僧もいるけど、リヴァイはどうなんだろう。ハンちゃんの私物を使ったりしてるんだろうか。…いや、これ以上考えるのはやめておこう。姉にオカズを知られるとか拷問すぎるものね。
愚弟の苦悩など与り知らず、親同士はまぁ良かったわねぇと和やかに喜んでいる。ちなみに何の因果か運命か、2人はクラスも同じだ。いやーめでたいね!
「リヴァイ君の隣でほんと良かったわぁ。ほらハンジってば、熱中したらご飯もお風呂も忘れちゃうでしょう? いくら学校の下宿だからって大丈夫かしらって心配していたの。リヴァイ君、時々ハンジの様子を見てやってくれないかしら?」
うっわーおばさんってばリヴァイへの信頼度マックス。年頃の女の子の様子を年頃の男の子に見に行けとか。こんなに信用されてたらかえって手を出しにくいよねぇ。いやでも中学生って1番暴走しやすい時期だもんなーリヴァイも例外じゃないよなー。
「お隣さん。んふふふ、これからもよろしくね、リヴァイ!」
改めて、と激しく握手するハンちゃんは無邪気に喜んでいる。水を差すのもどうかと思ったのか、お、おう、と歯切れの悪い返事をしながらも、リヴァイもよろしく、と一言添えた。ぎゅっと力強く、ハンちゃんの手を握り返しながら。
…もしかして「友情の差し入れ」が本当に必要になることに…なったり…うーん。一般的には早いけど、まぁ、幼馴染だし。結婚の約束もしてるし。リヴァイも責任を取る覚悟はあるだろーから、いいよね、うん。
この日以後、リヴァイとハンジは中学と高校の計6年間をずっと下宿で暮らすことになる。お姉ちゃんは近くで出歯亀を続けていたかったけれどそうもいかず歯がゆい思いをしたが、帰省する度に2人の間の雰囲気が少しずつ変わっていくのが楽しみになった。
決定的に変わって少し経ってから、ハンちゃんからリヴァイとお付き合い始めたよ、と教えてもらった。恥ずかしそうに幸せそうにはにかむハンちゃんはとても可愛くて可愛くて、愚弟は本当に幸せ者である。
更に高校を卒業した後は、大学入学と同時に同棲を始めたいと言って両方の親を吃驚仰天させたり(親は2人が付き合っていることに全然気が付いてなかったらしい。今も昔と変わらずきょうだい同然の仲良しさんだと思っていたと。何たる鈍さか…)、リヴァイが大学卒業して就職1年後に結婚したり(ハンちゃんは大学院に進んだので学生結婚と言うべきか?)、色々とあるのだけれど。
2人が私の庇護下から離れてしまった時点で、お姉ちゃんの出歯亀日記は終幕。
ハンちゃんから根掘り葉掘り聞き出した2人の恋模様は、また別の形でお目に掛かりましょう。