ベイビーベイビビ
アイラービュー
満足編
ハンちゃんが我が家に突撃する時の進入路は、8割が庭を通ってリビングに直行、2割が2階のベランダからリヴァイの部屋に直行、だ。2割の方は勿論両方の親から禁止されている。でもこっそり忍び込んでこっそり帰っていたら親にはバレないものなんだよね…リヴァイの隣の部屋の私は気付いても黙認してるし。いやほらやっぱり若い2人の秘密の逢瀬を邪魔しちゃいけないからね。
で、だ。そんな訳だから、ハンちゃんが我が家にやって来ていても玄関にハンちゃんの靴が置いてあるということは、まず無い。なので自室からリビングを通らずに玄関に直行して出掛けた私は、その時リビングにハンちゃんが来ていることに気付いていなかった。
なのでこの日の出来事は、私の与り知らぬ所で起きたお話。「小学生の頃にこんなことがあったよー」と数年後に雑談の1つとしてハンちゃんが話してくれるまで、私は全く知らずにいた出来事だ。
「…」
「…」
2人きりのリビングは静まり返っていた。ソファに座って雑誌に目を落としている少年と、少年にもたれかかっている少女と。テーブルの上には少女が持ってきたビニール袋が置かれている。貰い物のリンゴを隣家にお裾分けに持ってきたもので、それをお隣さんの誰かに渡せば少女の用事は終わったはずだった。
「…ねーリヴァイ」
「なんだ」
お隣の家の人にリンゴを渡せば母からの頼まれ事は完了。少女が隣家に居続ける必要はない。今すぐ自宅に帰っても良かった。帰って読みかけの本に戻っても良かった。だが、少女は帰ろうとは思わない。思えない。
「今日は道場に行かないの?」
「休みだ」
「ふぅん」
リヴァイはハンジが差し出したリンゴを受け取ると、すぐに雑誌に目を戻した。サンキュ、と言っただけだった。ハンジもうん、と言っただけだった。その時点で帰って良かったハンジは、だけどリヴァイのすぐ傍に腰を下ろした。その脚にもたれかかった。リヴァイは脚の重みに驚いて少女の方を見たけれど、ソファに座るリヴァイからは頭頂部しか見えない。
「…お前こそ、今日は図書館に行かないのか?」
「特別整理期間でお休みだから」
「そうか」
「うん」
リヴァイは雑誌を閉じて脇に置いた。少女がもたれかかってきた時点でまともに読めなくなっている。字を追っても中身が頭に入ってこない。読もうとしても無駄だと、素直に諦めた。
「わっ?」
「…」
がしがしとハンジの頭を掻き混ぜる。適当に結っただけの髪が乱れ解けて、その中にかすかな傷跡が見えた。ハンジがもっと小さい頃に負った傷だ。リヴァイが守りたかった傷だった。
「…なんか、久しぶりだね。こーゆーの」
「…そうだな」
頭を掻き混ぜるリヴァイの手を妨害しながらも、ハンジは屈託の無い笑顔で見上げてきた。少年が傷跡に気付いたことも、苦い記憶を思い出したことも、ハンジは気付かない。
「うへへへへへ」
「何笑ってんだ、気持ち悪ぃ」
「あ、ひど」
リヴァイが道場に通うようになって、ハンジが生物に興味を持つようになって。2人きりだった世界が広がり、2人で一緒にいる時間はとても減っていた。生まれた時からずっと一緒だった2人がずっと一緒ではなくなった。勿論登下校は同じだし、学校でも2人で一緒にいることが多い。だけど放課後は別れるし、それぞれ別れた先での人間関係も出来てくる。
こんな風に家で2人きりで過ごすのってどの位ぶりだろ。何だかもうずっと久しぶりな気がするなぁ、とハンジは笑う。
リヴァイが道場に通うようになって放っておかれて、寂しい思いをしたのはそう遠くない過去だ。なのにそれすら遥か遠い過去のように思える。そのすぐ後にハンジはひよこを飼い始めて生物への興味を爆発させ、リヴァイがいない寂しさを感じる暇も無くなったけれど、それでもやっぱりイヤだったんだな、と今更ながらに気付く。
2人きりで何をするでもなく、リヴァイの脚にもたれかかる。家には読みかけの本があるけれど戻る気になれない。頭をがしがしって乱暴に撫でられるのも気持ちがいい。
(あ、これ。幸せって言うんだな、多分)
「ねー、リヴァイ」
「何だよ」
「好きだよー」
「…」
ふわりと浮かんだ微笑は意識して浮かべたものではなかった。好きだなーと思ったら、そのまま想いを口にしたら、自然と柔らかな気分になった。ふわりふわりと浮き立つような、暖かで柔らかな気持ちがそのまま表情になった。そんな笑顔だった。
「…ハンジ」
「な」
頭を掻き混ぜる手が止まっていたことに、ハンジは気が付いていなかった。手がいつの間にか頭の後ろに回されていたことも。背もたれに預けていたリヴァイの体が近付いていて、あれ、近い?と思った、その時にはもう触れ合っていた。
「に」
「…」
リヴァイはすぐに体を起こす。呼ばれた名前に何?と答えるつもりだった声は分断されてしまった。呆然と見上げるハンジの視線から逃げるようにリヴァイは顔を明後日の方向へと向ける。リヴァイの顔はちゃんと見えなくなってしまったが、その横顔は、確かに赤らんでいた。
「…リヴァイ」
「別にいいだろ。2人なんだから」
「…あ、うん。そ、だね」
ハンジの顔も真っ赤になっている。言い訳のようにリヴァイがぽつんと呟いたのは、何年も前に2人の姉と交わした約束事だ。
おままごとで夫婦をして、キスをした。キスっていうのは軽々しくしていいものじゃない。2人っきりの時にしかしちゃいけない、と教えられた。
『別にいいだろ。ハンジとしかしねぇよ』
『そうだよー。リヴァイとしかしないもん』
今よりもっと子供だった頃。2人だけで世界が完結していた頃に、2人はそう答えた。
今もまだ大人とは言えない年齢だけど、それでもあの時よりは成長している。もう世界は2人だけじゃないと理解している。ただお互いが好きで、大好きで。一緒にいたくて、いつも一緒にいるのが当たり前で。他には何も要らないと思っていた頃とは、今はもう全然違うけれども。
「…リヴァイ」
それでも、リヴァイはハンジとしかキスをしない。
ハンジはリヴァイとしかキスをしない。
「…ん」
ハンジは体を乗り出して、リヴァイの肩に手を置いた。可愛らしい音を立てて唇が触れ合う。ハンジは、また笑う。幸せそのものだという笑顔で笑う。貼り付けたような顰め面が基本のリヴァイの頬の緩みをハンジは見逃さない。その貴重な笑顔が見れるのは自分だけなんだという優越感が、ハンジをまた幸せにする。
「好きだよ」
「…お前は昔からそればっかりだな」
「リヴァイは言わなさすぎ。将来のお嫁さんに好きくらい言ってもいいと思うよ?」
「…」
幼稚園の時の婚約が絶対に叶うなんて、もうハンジもリヴァイも思っていない。他愛も無い子供の約束、微笑ましいおままごと。結婚できる年齢まであと10年近くかかり、社会人になって自立して現実的に結婚となるともっと先の話だ。その間に色んなことがあるだろう。進路の選択で離れてしまうこともあるだろう。
本気で無条件に将来のお嫁さんになれるなんて思ってない。思ってないけど、だけど好きだから。いつか本当にお嫁さんになれたらいいなって願うくらい。
「…おい」
「何?」
誰も居ない2人きりの家で誰かに聞かれる心配なんてないのに、わざわざ耳を貸せって言って、小声で好きだと言ってくれるリヴァイのことが、ハンジはとても好きだ。
「うへへへへ」
「その笑い方、気持ち悪ぃって言ってんだろ」
「だって嬉しいんだもーん」
がしがしとまた、リヴァイは頭を乱暴に撫でる。こうして撫でていればハンジは上を向かない。真っ赤になった自分の顔を見られずにすむ。
「もっと言ってくれていいんだよー?」
「うるせぇ」
がしがし、がしがし。照れ隠しも合わさって髪はどんどんぐちゃぐちゃになっていくけれど、それすらもハンジには嬉しい。
(うん、幸せ)
生物の世話と新しい知識を得ることが、ハンジは楽しい。
道場に通い体を鍛えることを、リヴァイは楽しんでいる。
だけどそれだけじゃ足りない。一緒にいるだけで嬉しいと思えるこの時間、ほわほわといい気分になれる充実感は、2人でいないと得られない。
「ね、リヴァイ」
手を掴んで撫でる手を一旦止めて、ハンジはリヴァイを見上げた。まだ赤くなったままの顔で、何だ、と尋ねてくる。
『ハンちゃんがお願いしてリヴァイが折れなかったとこって見たことないなぁ』
今はとても満たされていて、とても幸せでいい気分。だから前に姉が言ってくれた言葉に甘えて、リヴァイに甘えてもいいはずだ。
「もう1回」
にっこり笑いかけるとリヴァイはそっぽを向いた。ハンジはじっとリヴァイの次の行動を待つ。
もう1回キスをしてくれるか、もう1回好きって言ってくれるか、どっちだろ。どちらでもハンジは嬉しい。嬉しくて幸せで堪らない。
やがて手を伸ばしてきたリヴァイは照れたままで、じっと待つハンジの頬も赤くなっている。嬉しくて幸せで恥かしくて死にそうだと、2人同時に思った。