彼と彼女のお風呂事情






 その朝ハンジはふと気付いた。お腹が減ったな、と。
 昨晩の夕食を食べてから12時間以上不眠不休で机に向かっている。一晩や二晩の徹夜は気にならないが、腹が減ると集中力も落ちる。栄養が足りなくなるのはよろしくない。仕方ないか、と伸びを1つ、食事が終わったらすぐに再開するからと簡単な片付けもせず、自室から食堂へと向かった。



「あ、分隊長。おはようございま…す…」
「んー、おはよー」

 見知った隊員に挨拶を返し、ハンジは廊下を進む。すれ違い様に顔を顰められるのはとっくの昔に気にならなくなっていた。顰める意味は昔は狂犬への恐れと蔑みで、今は人間奇行種への奇異と忌避だ。

(私の研究のお陰で分かったこともあるんだけどなー。ちょっとこの扱いは酷くない? ま、今更気にしないけど)

 朝食時ということもあって食堂は賑わっていた。空いてる席はあるかな、とぐるりと見渡す。ほとんどのテーブルが満席だったがハンジが1人入り込む隙間くらいはある。よし、と確認して、厨房からの受け取り口に向かう。否、向かおうとした。

「おい」
「ん? てっ」

 ばんっと異様に響きのいい音を自分の頭の裏から聞き、同時に訪れた衝撃にハンジはたたらを踏んだ。転びこそしなかったが軽くない力だ。いったいなーと苦情を添えて衝撃の元凶へと振り返る。

「何すんのリヴァイ。痛いじゃないか」
「お前。今度は何日風呂に入ってねぇんだ」
「お風呂? そんなことよりいきなり叩かないでよ。痛いんだよ貴方の一撃って」
「うるせぇ。んなことはどうでもいいから答えろ」
「どうでも良くないってば」

 見上げながら見下すと言う器用な真似が得意技な小柄な兵士長殿がそこには立っていた。深く刻まれた眉間の皺は健在で、不快極まりないという表情でハンジに対峙している。朝くらい清々しい気分になりなよと思うが、清々しく朗らかなリヴァイっていうのも想像できないなぁ、と失礼なことも思う。
 それにしても、風呂ねぇ、と記憶を探る。出てきた答えは実に曖昧なものだった。

「んー、さぁ?」
「…すぐに思い出せないほど遥か昔だと言いたいのか、てめぇは」
「あははははやだなー遥か昔だなんて、年単位で入ってないみたいじゃないか」

 研究に没頭するあまり風呂を忘れる、というのは、ハンジの日常的な癖だ。巨人の生態研究と作戦の立案、その両方がハンジが己に課した使命であり、どちらも疎かにしてはいけない。しかしどれだけハンジがその2つに熱中したくとも1日の時間は限られており、ならば研究以外の他の時間を削るしかない。削っても生存に問題が無い、死にはしない事柄と言えば、必然的にハンジ自身の私的な時間ということになる。身支度や風呂というのはその最たるものだった。

(あ。もしかしてそろそろ汗の匂いとかその辺がヤバいことになってるのかなー)

 体臭とは自分では気付かないものだ。もしかしたらさっきから変な顔を向けられてるのって臭いからなのかなーとようやくそこに思い至る。過去数日の記憶を掘り返すに、少なくとも昨日今日は朝に顔を洗うくらいしか肌に水を触れさせていないような気がする。
 普通の人間でも顰めるような匂いだったとしたら、潔癖症と名高いリヴァイが激怒するのも当然だった。場所が飲食をする食堂という場所なのだから尚更。

「飯食いに来る暇があるなら風呂に行ってこい!」
「えーやだよ。お風呂は入らなくても死なないけどご飯は食べないと死ぬもん」
「お前以外の人間の鼻が死ぬんだよ!」
「おっ上手いこと言うねリヴァイ」

 周囲が萎縮するほどのリヴァイの激昂を受けながらもあはははーとハンジは笑う。
 実際、ハンジにはそれが全てだった。生存に必要なのは風呂より食事だ。自分が臭くても気にならないが、腹が減っては集中が切れる。頭の回転も悪くなる。食事を取る時間すらも削りたいと常々思っていてもどうしても削れない必須事項だ。
 まぁでも、そろそろ妥協しないとヤバいかな?
 いかにハンジにとって風呂に割く時間が億劫でも、周囲に迷惑をかけるのは本意ではない。怒鳴りつけながらも忠告してくれているリヴァイの為にも入ってきますかねー、と思った頃、横から敵の増援が入った。

「リヴァイ兵長の言うとおりですよ、分隊長…」
「えー?」
「ちょっとその、ヤバイです。分隊長も仮にも女性なんですから、いやむしろ人間としてヤバイです」
「人間としてまで言うか」
「言います。ヤバイです」
「お前が仮にも人間だと名乗りたいなら今すぐ風呂に行って来い。人間奇行種の人間の文字すら剥ぎ取るぞてめぇ」
「うっわひどー」

 見知った隊員の反逆ばかりか、いつの間にか周囲の人間が観客と化しており、そうだそうだー、などと野次を入れる。明らかにハンジは孤立無援であり、周囲全てがリヴァイの味方であった。
 ハンジが次の発言に繋げた心境は、言ってみればただの悪ふざけであり、「今入ってくるって言おうと思ったのに、余計に言われてムカッときちゃった」という子供のような反発でしかなかった。

「…リヴァイが隅から隅までしっかり丁寧に洗ってくれるなら入ってもいいかなー」

 てへ、と小首を傾げた発言に、その場の全員が吹き出したのは言うまでも無い。
 ハンジは周囲のその反応に満足げによしよしと頷き、そして見逃した。最強の敵の目がぎらりと光ったことに。

「なーんて冗談だけどねーって、あれ? リヴァイ?」
「…言ったな?」
「へ?」

 当然、ハンジは完全に冗談のつもりだった。皆に責められた軽い意趣返しのつもりで、本当にリヴァイに洗ってもらいたいなど垢の一欠けら程も思っていなかった。
 まさかリヴァイが冗談も通じない程に激怒しているとは夢にも思っていなかったのだ。

「来い。お望み通り、デッキブラシと亀の子たわしで隅々まで洗ってやる」
「へ? あの、リヴァイ…?」 

 がしりと首の裏を掴まれる。今まで聴いたことのないリヴァイの真剣かつ恐ろしい声音にぶるりと震えながらも、後ろ向きに引き摺られては抵抗らしい抵抗も出来ない。リヴァイは自分より身長の高いハンジを危なげもなく引き摺って歩く。ただまっすぐに風呂の方向だけを見つめる顔は、ハンジからは見えない。

「それは人間を洗う道具じゃない…ちょっ、リヴァイー!?」






 2時間後。ほのかに石鹸の香りを纏って現れたハンジに、勇気を出して「あの、分隊長。リヴァイ兵長はほんとに…?」と尋ねた者がいたが、ハンジは遠い目をするだけで答えなかった。
 以後もハンジの風呂事情が改善されることは無かったが、唯一リヴァイに入れと言われた時だけは、素直に自分から1人で入るようになったという。







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