「大尉!」


 伸ばした手は遮られた。他の誰でもない、彼自身によって。


「早くお連れしろ!」


 彼の命令に従い、己の職務に忠実な親衛隊員たちが、躊躇う彼女を連れ去っていく。

 連続する轟音。うねりゆく爆炎。視界を遮る白煙。敵味方入り混じった銃声。
 正しくテロの現場となっているこの場所に、彼女は負傷した彼を置き去りにした。




W I L L





 ドアをノックしようと手を伸ばした時、彼女は一瞬だけ動きを止めた。
 もし彼女が1人ならば、一瞬どころか数十分に亘って考え込んだことだろう。しかし彼女は1人ではなかった。月の女王たる彼女には親衛隊が常に付き従い護衛している。特に先日のテロ以来は更に警戒を強め、ここ白の宮殿でも2人が随従していた。
 女王がこの病室を訪れるのはごく自然なことで、躊躇う理由など何一つも無かった。それ故に彼女は内心の動揺を押し殺す。彼女が躊躇ったのはほんの一瞬のこと、随員は誰も気付かなかった。

 ノックに応えた声があまりにもいつも通りだった為に、かえって彼女は泣きたいような気分になる。


「ハリー大尉。起き上がってもよろしいのか?」
「はい。ご心配には及びません」
「そうですか…」


 廊下に随員2人を残してドアは閉じられた。彼らには先に内密の話があるので席を外すよう、と言ってある。彼が女王の側近中の側近であることは周知の事実、何らおかしい申しつけではなく、また珍しいことでもなかった。

 痛々しい光景だった。
 首には固定のギプス、両腕と胴体には幾重にも巻かれた包帯。左の足はギプスで固定された上で吊り上げられている。全て、先日のテロで負った傷だった。
 彼女は――キエルは、目を背けたくなる自分を戒める。そんな資格など自分にはないのだから――と。

 進められるままに椅子に腰掛け、躊躇いがちに発せられた言葉は、ハリーの意表を付くには十分な一言だった。


――今日ほど女王の立場を恨んだことはありません」
「…は? それは――


 キエルは耐えられないとばかりに顔を伏せた。縋り付くように伸ばされた白い手はハリーの右手を握りこみ、無意識に込められた力は、少し傷に響いた。

 キエルは、震えていた。

 ハリーは自由の利かない体を恨めしく思い――なにしろ体を乗り出して抱き締めることすら出来ない――、少しでも彼女を安心させようと、努めて明るい声を絞り出す。


――申し訳ありません。先日は本当に怖い思いをさせてしまいました。ですがこれ以上貴女に危険が及ぶようなことは、決して二度と――
「そういうことではありません!」


 ぴしゃり、と言い放たれ、ハリーは言葉を失う。キエルは尚も俯いたまま頭を更に下げて――


「そういうことではありません…ハリー…」


 どうしてそのようなことを仰るのですか。
 言外にそう責めるキエルの声は嗚咽交じりで。キエルが震えているのはテロを思い出したからではなく全く別の恐怖なのだと、ようやくハリーは思い至った。


「私は…怪我をなさった貴方を置き去りにして…1人だけ逃げたんです…」
「…それが私の職務です。お解りでしょう? 私は貴女の親衛隊長なのですから」
「解かっています! でも…っ! 貴方は私を庇って怪我をしたのに…!」


 その場に留まって手当てをすることも出来ない、付きっ切りで看病することも出来ない。女王という立場がそれを許さない。
 彼女に許されるのは職務の合間のほんの少しの時間、見舞いに訪れることだけ。
 愛する人が自分を守って傷付いたのに、償うことすら出来ない。


「ごめんなさい…」
「…貴女が気に病むことではありません」
「ごめんなさい、ハリー…。ごめんなさい…」


 ハリーは空いた手でキエルの頭を撫でてくれた。彼女を労わる手付きに、キエルは涙を零す。

 キエルが気に病むことではない――はずがない。
 キエルがもっと早く脱出していれば、ハリーが怪我をすることは無かった。
 キエルがもっと早く会場の人たちを非難させていたら、キエルはもっと早く脱出できた。
 キエルがもっと良く政を治めていたら、そもそもテロ自体が起きなかった。

 テロはテロ。そこに至るまでの動機が何であれ、テロと言う暴挙を手段として選択した時点で絶対悪となり、為政者が負うべき責は消滅する。
 ――そのように頭では理解していても。いざ自分を庇って誰かが傷付いたら――それが最愛の人なら尚更――どうして自分を責めずにいられよう。


「…キエル。顔を上げてください」
「…ハリー…」


 泣き濡れた顔は「ディアナ・ソレル」ではなく、「キエル・ハイム」そのもの。恋人を愛し、その身を案じる、10代の少女そのものだった。
 ハリーは自分がこれから言うことが彼女には何より酷だと自覚している。
しかし言わない訳にはいけなかった。たとえ愛する女性でも、仕える主であっても、ハリーには譲れないものがある。


「そのようなことは仰らないで下さい。貴女に貴女の役割があるように、私には私の役割があるのです。
 もしもう一度同じ状況になったとしても、私は同じように貴女をお守りします。そうしなくては、私は私でなくなってしまう」
「…っ」
「お解かりいただけますね? …キエル」


 分かりませんと駄々を捏ねられるほど子供ではなく、分かりましたと納得できるほど大人でもなく。
 だけどハリーが言っているのは、否定できない事実。キエルが何を言っても決して曲げることなど出来ないハリーの信念だと分かってしまって、キエルは消え入るような声で、せめてもの願いを口にする。


「…約束してください。お願いです。どうか、私のせいで死ぬことだけはしないと」
「…申し訳ありませんが、致しかねます。ですが、出来る限り貴女を悲しませないよう、最大の努力をお約束します」
「…ずるいです、そんな言い方は…」


 こんな約束はキエル自身偽りでしかないと分かっていて、それでもいいから約束して欲しいと言っているのに。ハリーは決して諾と言ってくれない。
 嘘でもいいから。キエルは以前にも同じことを言った。


『好きだと仰って下されば、アグリッパをも暗殺してのけましょうに』


 あの時もハリーは言ってくれなかった。その誠実さ、潔さを愛おしく思うも――こんな時は、恨めしいばかり。


 もうじき「キエル」の時間が終わる。彼女がハリーの為に裂ける時間は少なく、すぐに次の職務に移らなければならない。
 本物のディアナ・ソレルに代わって月の女王を務め上げると決めたのはキエル自身。自分1人の我侭で職務を放棄することは許されず、そしてキエル自身がそんな自分を許せない。

 そしてハリーもまた、そんなキエルを良く分かっている。女王と親衛隊長、職務は違えども根底にある責任と矜持は同じものだ。
 だからこそ、ハリーは告げるのだ。どんなに酷な言葉でも、キエルならば理解し、受け入れてくれると分かっているから。


「ずるいお方…」


 それでも、せめてこれ以上彼女を泣かせたくはないから。
 抱き締めることもキスすることも出来ない代わりに、涙で濡れた唇を優しく拭った。








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