その報が届いた瞬間、ブリッジにいる誰もが安堵の溜め息を吐いた。
 ダイスケ艦長は即座に封鎖していた無線を解けと命じた。ソレイユを始めとするディアナカウンターとミリシャの各艦が入り混じって、続々とホエールズに連絡が寄せられた。
 ターンエーとターンエックスは沈黙。ロラン・セアックは無事保護。ギンガナムは消息が知れず、が、絶望的である。ギンガナム艦隊は旗印を失って間もなく投降した。ソレイユは墜落したが、被害は最小限でありディアナ様はご無事である。
 そして、ハリー大尉達MS部隊も全員が生還した、と。

 キエルは無意識に左手を抱きこんだ。ようやく強張っていた全身から緊張が解ける。
 ダイスケ艦長は気遣わし気に視線を向けてくれていた。キエルは感謝の目礼を送ると、両手を膝の上に戻した。
 それでも右手はずっと左手を添えられていた。







その手が繋いだ約束







 ノックの音が響くと同時にハリーはバイザーに手を伸ばした。「どうぞ」と応え、ドアが音を立てた時には、もう装着し終えている。


「ハリー大尉、よろしいですか?」
「はい。どうぞ、キエル嬢。このような格好で失礼します」


 ベッド脇の椅子に促されて、キエルはそこに腰掛けた。今日のキエルはキエル・ハイムの格好のままだ。椅子に座ったことで藍色のドレスがふわりと広がった。

 ここはソレイユの医務室の一室だ。艦の構造上もあって白の宮殿の病室よりは少々手狭になっている。
 今日のハリーはベッドに腰掛けず、寝たままで上体だけを起こしていた。


「いいえ、お気になさらないで下さい。まだ熱があるとお医者様に伺いましたが…」


 起きたりして大丈夫なのですか、とキエルは視線で問いかけた。ハリーはいつもの癖で、気恥ずかしそうに頬をかく。


「今朝にはもう下がりました。まだ体力が戻らないのでこの有様ですが…。情けないことです」
「そんな…。以前モビルスーツと操縦者が無関係ではいられないと仰ったのは大尉でしょう。体力・気力と消耗なさったのですから、大事にして下さい」
「そうですが、しかしこれからが大変な時です。私1人がいつまでも寝ている訳にはいけません」
「あのような戦いの直後なんです、今くらいはゆっくりなさって下さい。ポゥ中尉達はまだ起き上がることも出来ないと聞いています…」
「…」


 心配のあまりの責めるような言葉にハリーは苦笑で応えた。キエルも言い過ぎたかも、と気恥ずかしそうに目を逸らす。
 キエルは視線を動かした先に林檎が置いてあるのを見つけた。暗黙の了解のようにハリーが頷く。キエルはぺティナイフでするすると皮をむき始めた。


「…ふふ。いつかの再現みたいですね」
「…キエル嬢には情けない所ばかりをお見せしています」
「それ以上にもっと素敵な所を見せていただいていますから大丈夫です」


 何が大丈夫なのかはお互いに口にせず、2人でくすりと笑いあった。
 小皿に剥き終わった林檎を載せてキエルが差し出す。はい、とハリーは手を伸ばそうとしたが、一瞬躊躇ったように動きを止めた。
 再度動き出した時、ハリーの手は差し出された林檎ではなく、キエルの左手を取っていた。


「…大尉?」
「…何やら不思議な気分です」


 キエルは一先ず小皿をサイドテーブルに載せてハリーの言葉を待った。ハリーの左手とキエルの左手の4本の指が握り合った形で、それはホエールズのブリッジでの時と同じだった。
 ハリーの目は相変わらず赤いバイザーで隠れてしまっていて、口元だけでは今一表情が読み取りづらい。


「…私はギンガナムと刺し違える覚悟でした」
「…大尉…」
「そのせいでしょうか。ずっと生きて戻ったのだという実感が沸かなかった。何故ここに居るのだろうと自分の存在を希薄に感じていました」


 トルコ石の双眸が悲しみに彩られた。どうしてと、キエルはハリーを責めている。どうしてそんな哀しい覚悟をするのか、どうして今そんなことを話すのか、と。
 ハリーはキエルを安心させるように、ふ、と口元を和らげると、手を握る力を強くした。


「…ですが、不思議ですね。今ようやく生きて帰った気がするのです」


 キエルを包み込む手は優しく、そして暖かい。確かにここに居ると、キエルに触れていると告げるぬくもりに、キエルは徐々に表情を和らげていった。


「…では、大尉は私に魂を預けて行かれたのだわ」


 キエルは繋がれた手に右手を被せた。ハリーの手が柔らかいぬくもりに包み込まれる。


「あの時ですか」
「はい。ですから今私から貴方にお返しできたんです」


 あの時、ホエールズのブリッジで手を繋いだ瞬間に。
 だから今まで生きてる心地がしなかったのだとキエルは笑った。ハリーはその笑顔に何処か救われた気持ちになり、わざと冗談めかした仕草で成程と頷いてみせる。


「それは良いですね。が、もしそうなら私は随分と不忠の臣ということになる」
「ディアナ様にではなく私に預けられたから?」
「はい」
「でも、私は嬉しいです」


 本心からの言葉にキエルはほころんだ花のような笑顔を添えた。美しくも可愛らしいその姿に、ハリーはほとんど無意識に空いていた右手を伸ばす。
 キエルの頬に添えた指がさらりと金の髪に触れる。今まで押さえ込んできた衝動がその反動とでも言うように強くハリーをかきたてる。
 キエルがハリーの意図に気づいた時には、既に2回目のキスを交わしていた。







 キエルは息すら忘れたようだった。消え入るような声で大尉と呟く。見開かれた瞳は瞬きすら忘れ、呆然と赤いバイザーの先を見詰めている。
 キスの間も開かれたままだったなと、ハリーは微苦笑した。


「…キスの時は目を閉じるものですよ」
「…そんなこと…」


 そこで言葉を切ってしまったので「そんなこと言われても」と続いたのかどうかは定かではない。キエルは拗ねた子供のような声でハリーを批判した。


「私だけに言うのは卑怯ではありませんか? 大尉の目は隠れてしまってどちらなのか分かりません」
「ふむ。一理あります」


 ハリーはいつもの芝居がかった仕草で頷いて見せた。


「それでは確かめてみますか?」
「え?」


 3度目のキスはバイザーを外した素顔で交わされた。
 瞼が下ろされたかどうか、当人達以外は知る由もない。








「キエル嬢はこれからどうされるので?」
「一先ずはビシニティに戻ろうと思っています。長く離れていますから」
「そうですね。それがよろしいでしょう」


 軽いいたずらの延長上でディアナと入れ替わって以来ずっと故郷には戻らず、臥せたままの母にも会っていない。
 キエルは一旦妹を連れて故郷に帰ろうと思っていた。だが。


「ですが、また私が必要になりましたらいつでも呼んで下さい」


 戦いは終わった、しかしいまだ月と地球の関係は良好とは言えない。
 ギム・ギンガナムという共通の敵を得たことで一時休戦状態に入っていたが、その敵がいなくなった今、再びアメリアの領主の多くは月の女王に反目を示すようになるだろう。安定しない情勢で再びディアナ・ソレルの影武者が必要になるだろうことは容易に予想できる。

 ハリーはキエルの身を危険に晒すかもしれないことを申し訳なく思い、同時に主を守ろうとしてくれている思いに深く感謝した。


「はい、ありがたく思います。…ですが」
「何か?」
「ディアナ様をお守りする以外にも個人的にお誘い申し上げたい。勿論キエル嬢がよろしければ、ですが」
「…大尉…」


 照れ隠しにハリーは頬をかく。キエルは見開いていた目を潤ませて、再び花のように表情をほころばせる。


「…はい。ええ、勿論です大尉。お待ちしています」


 大切に握られた手は次への約束となる。
 ハイム家にキエルが待ち望んでいた電話が入ったのは、キエルが実家に戻ってから4日後のことだった。










後書きと言う名の余計なコメント。

 この話を書くに当たって「∀」の世界で魂の概念があるのか?という疑問を抱きました。が、「我魂魄何回生まれ変わろうとも…」とジャンダルムに向かって叫ぶハリーのセリフを思い出したので、少なくともムーンレイスにはある!と勝手に決め付けました(笑)
 何となく告白シーンは書きたくないこの2人。言葉にしなくてもお互いの想いは通じ合っている感じ。
 あの49話の手を繋ぐシーンは近年稀に見る名シーンです。伝えることは出来ない思いを全て手に込めて触れ合わせたのですよね。
 手を繋ぐだけでも見せ方次第で最高の絵になる、そう教えてくれたシーンでした。











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