oblivious 01
要するに種を残せということらしい。
人類最強なんぞと言われている俺のガキならさぞ優秀な兵士になるだろうと、そういうことらしい。
(馬鹿らしい…)
親の資質を子が受け継ぐことはあるにはあるが、全く受け継がない場合も可能性としては同じくらいだろう。そもそも俺の身体能力は特別変異と言っていい。俺の親はどっちも普通の人間だった。俺が異常なだけで、俺のガキに俺の異常が受け継がれるとは思わない。
話が来た時点で面倒だの一言で断ったが、お偉方の面子がどーのこーのでとりあえず1回は会ってみろと言われた。クソ面倒極まりないが話を持ってきた上司も断りきれずに苦慮しているらしく、仕方なく上司の顔を立てる形で会うことにした。
お偉方の遠縁だというその女は、事前に予想した「貴族の女」からは掛け離れていた。
理知的な女だった。自分の価値を理解している女だった。俺のガキを産む為の借り腹扱い、まるで家畜のような扱いをされていることを理解していて、その上で俺と結婚したいと言い出した。
「貴方の使命は理解しているつもりです。…いえ、内地から出たこともない私が巨人の何たるかを理解してるとはとても言えませんが、貴方が命を賭して目指している未来を、私も見たいと思います。
だからお願いします。貴方を支える一助とさせて下さい」
お偉方から命じられた俺の子を産むという指令を果たし、妻として家族として俺を支えたいと。
俺に取り入る為の媚びた嘘は無かった。この女は俺を愛している訳じゃない。俺の妻になりたいと言うのは、俺を助けることで間接的に兵団を助けたいからだ。巨人を全滅させ、人類の自由な生活を取り戻す。その一助になりたいと言う。
貴族として生まれたせいで兵団に入団しようにも親の妨害で訓練兵にすら志願できない。支援組織へ協力したくても貴族の娘の道楽だと参画を認めてもらえない。親の命じるままに貴族へと嫁がされ享楽的で自堕落な人生しか歩めないと絶望していた中で、たった1つ見つけられた希望の道なのだと。
そう俺に訴える目は必死そのもので、真剣に心から兵団の、人類の一助となりたいと願っていた。
…俺はこの女を恋愛の意味で愛することは出来ないだろう。だが、互いに尊敬しあえる夫婦にはなれるだろう。そう思った。
次の壁外調査に向けた会議の帰り道、偶然ハンジと2人になった。単に向かう部屋の方向が同じなだけで意図した訳ではなく、そういえば、と話の切れ目にハンジが切り出してきた。
「結婚するんだって? リヴァイ」
「…どれだけ広まってるんだ、暇人かお前ら」
「暇人とは酷いね。私が寝る暇もないほど忙しくしてるのはよーく知ってるだろう? 純粋に祝ってるんじゃないか、素直にありがとうって応えなよ」
持ち込まれた見合い話は婚約まで話が進んでいた。積極的に反対する理由がなければ見合い話とは勝手に話が進んでいくものらしい。流れにまかせていれば勝手に進むのは楽ではあるが、俺の意思を無視して動いているようで不気味でもあった。
婚約の話を誰かに吹聴した覚えはないと言うのに一体どこから聞きつけるのか、この頃には顔を合わせる奴がどいつもこいつも辟易するほどに祝ってきていた。ハンジはむしろ遅い方だ。
「やっぱりさ、嬉しいんだよこういう話題って。ほら誰それが死んだーとか、誰それの足が喰われたーとか、そーゆー話ばっかりでしょ? めでたい話なんて珍しいから余計に嬉しくてさ、みんな話に乗っかって楽しみたいんだよ」
「酒盛りの口実にしたいだけだろうが」
「うーんそれも否定できないかな。独身最後の夜は絶対に寝かせてもらえないね、リヴァイ」
あははははー、と能天気な笑い声が廊下に響く。とっくに夜も更けて宿直以外は寝静まっている時間だと言うのに気遣いというものはこの女にはないらしい。
「寝かせない筆頭はお前だな。この絡み酒め」
「えー? お酒飲んだら気持ちよくならない? 気持ちよくなったら楽しい話したくならない? 一緒に楽しみたいだけじゃないか」
「それを絡み酒っつーんだ、クソメガネ」
「あはははーそうかもね。
ま、でもそれももう自重しなきゃね」
「あん?」
僅かな灯りしかない廊下はほとんどが暗闇だ。隣を歩く奴の顔すらもはっきりと見えない。だというのに、何故か。まっすぐに前だけを見て俺を視界に入れようともしないハンジの顔が、その時だけ見えすぎるほどに見えてしまった。
「結婚するんでしょ? 私も一応は女だから、そういうことは止めないとね。奥さんに悪いわ」
廊下の奥よりもずっと遠くを見ているような、遠い、遠い目。自嘲するように僅かに上がった口角。私も一応は、と言った時の、微妙な声の上がり具合。
――何でだ。何で、よりによって、今なんだ。
「…ハンジ」
「うん?」
なんだい?とぐるりと向けてきた表情はいつも通りで、今度は何日風呂に入ってねぇんだと怒鳴りつけたくなる汗の匂いもいつも通りで、きれいとは口が裂けても言えない適当な格好も、俺より高い身長に似合った鶏ガラみてぇな骨と筋肉ばかりの体も、何一つ変わっちゃいないと言うのに。
「…いや」
何故、今になって気付く。
「なんでもない」
「んー? 変なリヴァイー」
ケラケラと品のない笑い声を上げるこいつが、
――『女』なのだと。
気付いたら終わりだった。加速度的に熱情は膨れ上がる。
何をしてる。
理性が警告を上げる。今の俺には婚約している女がいる。そいつに不満がある訳じゃない。相思相愛の仲じゃなくても、こいつとならと思えた女だ。恋愛よりも親愛と信頼を築いていけるだろうと思った相手だ。
ハンジは同じ調査兵団の同僚で、私的には友人のような関係で、そこに男と女の区別はなかった。ハンジはハンジだった。性別を意識したことなどなく、親愛の情はあったにしろ女として意識したことなどなかった。――あの時までは。
何をしてる。
一度『女』に見えたら、もう他の何にも見えない。ハンジは女だった。どうしようもなく女だった。
男の低音とは決定的に違う声も、鶏ガラみたいな癖にあるところにはある膨らみも、汗臭さの中にかすかに残る柔らかな匂いも、何のこともない仕草も、ガキみてぇに顔全体で笑う顔も、その全部が『女』にしか見えなくなった。
――何故今頃になって気付く。どうしてこんなにも焦がれる。
何故もどうしてもない。自問しながらも分かっている。今頃だろうが何だろうが関係ない。気付いてしまったらどうしようもないんだ。
どうしようもなく逃れられない――この、好きだと思ってしまった感情からは。
「リヴァイお前、『俺、調査から帰ったら、結婚するんだ…』とか絶対に言うなよ?」
「ああ?」
壁外調査の前夜。食堂でメシを食いながらくだらねぇ雑談に興じていると、いきなり隣の奴にそう言われた。
「何だそりゃ。何でそんな宣言をしなきゃいけねぇんだよ」
「いやいや、言うなって話。なぁ?」
「そうだな。言ったらヤバイな」
「…」
意味が分からん。そう表情に出ていたんだろう。向かいに座っていたハンジが笑い出した。いつも通りの大声で、品の欠片も女らしさの欠片もない笑い声を上げて。
「あっははははははは、それはダメだね、うん、ダメだ! 絶対に言っちゃダメだよーリヴァイ。有名な死亡フラグだ!」
「…はあ?」
意味が分からん。今度はそのまま口にしたら、ようやくまともな解説が返ってきた。
「小説なんかだとな、ありがちなんだよ。そーやって『帰ったら結婚』だの『告白するんだ』だの言った奴があっさり死ぬってのが」
「…ああ、お約束ってやつか。馬鹿らしい」
そうだけどさ、とハンジが言う。
「馬鹿らしいけど、これもゲン担ぎだよ。何なら逆を言ってみる? 俺は帰ったら結婚しないんだって」
「何だそりゃ。せっかく決まった結婚を破棄しますーってか?」
「馬鹿言うなよハンジ、あんなに綺麗で優しそうなお嬢さんとの結婚を止めるとか絶対に嫌だね」
「嫌だねってお前が結婚するわけじゃないだろ」
「いやそうだけど」
「…言ってやろうか」
「ん?」
俺の前に座る女はゲラゲラと笑い続けている。箸が転げるだけで笑える年じゃあるまいし何をそんなに面白がっているのか。
何も考えずに言われたに決まってる言葉が俺にはどれだけ重く聞こえたかなんて考えもしないバカ女に、俺は、
「俺は帰っても結婚しない」
「――」
まさか本当に言うとは思ってなかっただろう、わざわざ身を乗り出して言ってやった俺に、ハンジはぽかんと間抜け面を晒した。周りでぎゃーぎゃー騒いでいた奴らも一瞬で沈黙する。俺は反応を待つことなくさっさと椅子に座りなおした。
「って言ったら、逆に生還できるのか、俺は?」
そう続けるだけで俺の発言は冗談になる。周りは胸を撫で下ろしたとばかりにバカ話を再開した。
「…お、おう?」
「だったらいいな? オレも言おうかな」
「お前はまず相手がいないだろ」
「げふっ」
ハンジはまだ間抜け面のままだった。しばらくしてからようやく、ぷっと小さく吹きだす。こいつにしては小さすぎる笑い声だった。
「びっくりしたー。リヴァイでもそんな冗談言うことあるんだね」
「馬鹿言うな。俺はユーモアに満ち溢れているだろうが」
「あははははーそれこそ悪い冗談!」
「…」
俺の話はここで終わり、食事も終わって早々に自室に引き上げた。
下らない雑談の中の他愛のない話題の1つだったはずなのに、それは俺の中に重く圧し掛かって消えやしない。
俺は帰っても結婚しない。――惚れた女がいるから、あいつとは結婚できない。
そう言ってしまえたら、どんなに。
俺の惚れている女は俺のことを何とも思っていない――俺の結婚を祝福すらしているというのに。
このまま結婚するか、婚約は破棄するか。皮肉にも俺が頭を悩ませた期間はそう長くなかった。
(…クソッタレ)
声を出す気力もない。気力以前に喉をやられてるのかもしれない。体の感覚がない。相当出血したはずだが寒いとすら感じない。
死ぬな、と頭は妙に冷静だった。混乱していようが落ち着いていようが結局死ぬんだから変わりねぇじゃねぇか、と悪態を吐けるほどに。
人類最強だのなんだのと言われてもこんなもんだ。誰だって死ぬ時は死ぬ。
(ガキみたいに大声で泣いてんじゃねぇよ、クソメガネ)
リヴァイ、リヴァイ、と縋りついて俺の名前を馬鹿みてぇに繰り返す。せめて感覚が残ってりゃこいつの体温を感じながら死んでいけたのになと、それだけが残念だった。