oblivious 03
リヴァイが結婚するという話を聞いた。
何でもお偉方から持ち込まれた話で、要するに種を残せということらしい。リヴァイの子供なら優秀な兵士になるだろうと。
(うっわ生々しー。けど、まぁ、ありえない話じゃないか。本当に受け継ぐかどうかは別として、小さい頃から英才教育で鍛えこんだら相当なものになるだろーし)
おとーさんかっこいー、おれおとーさんみたいにつよくなるー、なんてかわいいことを言って、兵士の道を歩む可能性も低くはなさそうだ。
意外だったのはリヴァイがその話を受けたことだ。お偉方の遠縁の貴族の娘さんで、どう考えても打算と柵で雁字搦めの面倒な結婚話だと言うのに、だ。
「や、あれは落ちる。男なら誰だって落ちるね!」
実際にその女性を見たという奴はそう熱弁した。
「貴族のお嬢さんだっつーけど偉ぶってる感じとか全然なかったぜ。見張りの兵士にお疲れ様ですって会釈するお貴族様なんて初めて見たわー。もうすっげ綺麗でさー、その場でオレが結婚を申し込みたかったくらいだね」
「へー」
話半分に聞くとしても、どうやら相当に「当たり」な女性らしい。
それそれは、としかその時には思わなかった。兵団の仲間であり友人でもあるリヴァイの吉報に、それはめでたい、と他人事のような感想しか抱かなかった。
――他人事だと思っていた。この時は、まだ。
「そういえば」
「うん?」
「結婚するんだって? リヴァイ」
次の壁外調査に向けた会議の帰り道、偶然リヴァイと2人になった。何のことはない単なる偶然で、そう言えば結婚の話を聞いてからリヴァイと話す機会がなかったなーと思い出したくらいだ。
「…どれだけ広まってるんだ、暇人かお前ら」
「暇人とは酷いね。私が寝る暇もないほど忙しくしてるのはよーく知ってるだろう? 純粋に祝ってるんじゃないか、素直にありがとうって応えなよ」
リヴァイの結婚の話は調査兵団のみならず駐屯兵団や憲兵団の方へまで流れているらしい。…というのはさすがに大袈裟だろうけど、そう言われるくらいには皆吃驚仰天したニュースだってことだ。会う人会う人に結婚がどーのこーのと言われてるらしいリヴァイは私まで言い出したことに辟易したのか、もう一生消えそうにない眉間の皺を更に深くした。
「やっぱりさ、嬉しいんだよこういう話題って。ほら誰それが死んだーとか、誰それの足が喰われたーとか、そーゆー話ばっかりでしょ? めでたい話なんて珍しいから余計に嬉しくてさ、みんな話に乗っかって楽しみたいんだよ」
「酒盛りの口実にしたいだけだろうが」
「うーんそれも否定できないかな。独身最後の夜は絶対に寝かせてもらえないね、リヴァイ」
あははははー、と能天気な笑い声が廊下に響く。
仲間のめでたいニュースなんて本当に稀だ。悲報に対して吉報なんて百分の一もあるかどうか。だから祝える時は盛大に祝っておきたいし、喰われる恐怖を少しでも薄めたいと酒盛りに走る気持ちも嫌というほど分かる。我らが兵士長殿の結婚話なんて格好の酒の肴じゃないか。めでたい事この上ない。…この上ない、のに。
「寝かせない筆頭はお前だな。この絡み酒め」
「えー? お酒飲んだら気持ちよくならない? 気持ちよくなったら楽しい話したくならない? 一緒に楽しみたいだけじゃないか」
「それを絡み酒っつーんだ、クソメガネ」
僅かな灯りの暗い廊下。リヴァイがクソメガネ、と私を呼ぶのはいつものことだ。ずっとそうだった。これからもそうだろう。リヴァイと私が生きている限り、ずっと。
「あはははーそうかもね。
ま、でもそれももう自重しなきゃね」
「あん?」
隣を歩くリヴァイの顔なんて暗くて見えない。見たいとも思わなかった。見られたいとも思わなかった。廊下の先の行き当たりのその更に先まで見通すように、私は前だけを見つめていた。
「結婚するんでしょ? 私も一応は女だから、そういうことは止めないとね。奥さんに悪いわ」
私も一応は。そう言った時、変な声にならなかっただろうか。変な顔になっていなかっただろうか。
結婚するのだから明確な線を引かなくてはいけない。私は女でリヴァイは男なんだから。
そう気付いたのは本当についさっきで、気付いたら急におかしな感覚が襲ってきて、そして。
「…ハンジ」
「うん?」
なんだい?とぐるりと向けた表情はいつも通りだったはずだ。動揺を隠せる面の皮に万歳。
「…いや」
今私の隣にいるのは、我らが調査兵団の兵士長。歴戦を共に潜り抜けてきた仲間。馬鹿話と酒盛りに一緒に興じる友人。リヴァイ。それが彼の全てのはずだった。他には何もないはずだった。
女の私とは全然違う低い声だとか、私より低いのに私よりがっちりしてる体だとか、乱暴な中にも気遣いを潜ませる言葉だとか、何一つ彼は変わっていないのに。
「…いや」
どうして、今になって気付くんだろう。
「なんでもない」
「んー? 変なリヴァイー」
もうすぐ他の女と結婚するこの人が、
――『男』なんだと。
一旦気付いたら終わりだった。加速度的に熱情は膨れ上がる。
何してるんだろうね。
ばっかだなーと呆れる。リヴァイには婚約した女性がいる。相思相愛で結婚するわけじゃないみたいだけど、相手に不満はないみたいだ。親愛と信頼でする結婚は、一時の激情で結婚するよりも長く深く続くいい夫婦になるって聞いたことがある。リヴァイはきっとそういう夫婦になれるだろう。
リヴァイは同じ調査兵団の仲間で、個人的には友人で、そこに男女の区別はなかった。リヴァイはリヴァイだった。性別を意識したことなんかなくて、親愛の情はあったにしろ、男として意識したことはなかった。――あの時までは。
何してるんだろ。
一度『男』に見えたら、もう他の何にも見えない。リヴァイは男だ。どうしようもなく、男だ。
耳に心地よい低音の声も、小さい癖に誰よりがっしりした均整の取れた肉体も、ふいに香る男臭さも、ふとした瞬間に見せる柔らかな表情も、その全部が『男』にしか見えなくなった。
――どうして今頃なんだろうねぇ。どーしてこんなにも気になっちゃうんだろ。
どうしても何もない。自問しながらも分かってる。今頃だろうが昔からだろうが、気付いてしまったらどうしようもないものだ。
どうしたって逃げられない、――この、好きだと思ってしまった感情からは。
「リヴァイお前、『俺、調査から帰ったら、結婚するんだ…』とか絶対に言うなよ?」
「ああ?」
壁外調査の前夜。食堂でご飯を食べながら馬鹿話に興じていると、リヴァイの隣に座ってた奴がいきなり言った。
「何だそりゃ。何でそんな宣言をしなきゃいけねぇんだよ」
「いやいや、言うなって話。なぁ?」
「そうだな。言ったらヤバイな」
「…」
意味が分からん。リヴァイは顔全体でそう言っていて、私はついつい吹き出してしまった。吹き出すなんてかわいい表現じゃないな。あはははははーと大声を上げて、だ。…きっとリヴァイの婚約者のお嬢さんは、こんな風に大口を開けて笑ったりはしないんだろう。
「あっははははははは、それはダメだね、うん、ダメだ! 絶対に言っちゃダメだよーリヴァイ。有名な死亡フラグだ!」
「…はあ?」
まだ分かってないみたいだけど、私は笑うのに忙しくて詳細な解説は不可能だ。言い出した奴がちゃんと補足説明してくれた。
「小説なんかだとな、ありがちなんだよ。そーやって『帰ったら結婚』だの『告白するんだ』だの言った奴があっさり死ぬってのが」
「…ああ、お約束ってやつか。馬鹿らしい」
「馬鹿らしいけど、これもゲン担ぎだよ。何なら逆を言ってみる? 俺は帰ったら結婚しないんだって」
ああ、馬鹿らしい。逆を言ったからって何も起きたりしないって言うのに。逆を言ったからってリヴァイは結婚を止めたりしないって言うのに。言わせてみたいと思うこの気持ちはドロドロの女の情念そのものだ。
「何だそりゃ。せっかく決まった結婚を破棄しますーってか?」
「馬鹿言うなよハンジ、あんなに綺麗で優しそうなお嬢さんとの結婚を止めるとか絶対に嫌だね」
「嫌だねってお前が結婚するわけじゃないだろ」
「いやそうだけど」
「…言ってやろうか」
「ん?」
ゲラゲラと笑う。大声で笑う。誰にも悟らせないように。本気で本当の意味でそう言って欲しいって考えていると、誰にも気付かれないように。
腹を抑えている振りをして俯いていたから、だから気付けなかった。リヴァイが身を乗り出してきていたことに。とても近い距離で、私を睨んでいたことに。
「俺は帰っても結婚しない」
「――」
真っ白になった。だってそうだろう。まさか本当に言うとは思わなかった。こんな、まるで本気で言っているような真剣な声で。
私だけでなく周りも一瞬で静かになった。ごとん、とリヴァイが椅子を直す音が異様に響く。私の間抜け面を満足そうに眺めて、リヴァイはへっと鼻で笑った。
「って言ったら、逆に生還できるのか、俺は?」
…ああ、冗談か。びっくりした。頭が真っ白になるくらいびっくりした。周りは胸を撫で下ろしたとばかりにバカ話を再開した。私はまだぽかんと間抜け面をさらしたままだ。
「…お、おう?」
「だったらいいな? オレも言おうかな」
「お前はまず相手がいないだろ」
「げふっ」
体感的には1時間くらいぼけっとしていた気がする。勿論そんなはずないんだけど。しばらくしてからようやく我に返って、私はぷっと小さく吹きだした。自分にしてはありえないくらいの小ささだった。
「びっくりしたー。リヴァイでもそんな冗談言うことあるんだね」
「馬鹿言うな。俺はユーモアに満ち溢れているだろうが」
「あははははーそれこそ悪い冗談!」
「…」
リヴァイの話はここで終わり。食事が済み次第皆部屋に戻って、翌日に備えてさっさと寝た。
いつもと変わらない馬鹿話の中の話のネタの1つだったはずなのに、囁くように言われた言葉が私の中に深く巣くって消えてくれない。
俺は帰っても結婚しない。
…冗談だ。分かってる。本気になんて取らない。
リヴァイは結婚する。そう決まっている。私はただ笑って祝福してやるだけだ。――たった1人の女性が決まってから惚れるなんていう、最低の愚かな自分を押し殺して。
リヴァイの結婚式までにもっと上手に笑顔を作れるようになっておかないとなー、なんて心配は、皮肉にも杞憂に終わってしまった。
「リヴァイ」
縋るように抱き締めて、呪文のように名前だけを呼ぶ。それなのに頭の一部は妙に冷静で、これはもう、と分かってしまっていた。
「リヴァイ」
人類最強じゃなかったの、あなた。
どうして私は無傷であなたはこんなになってるの。どうして。どうして。
「リヴァイ」
子供のように泣きじゃくって、引き止めたくて縋りついて。それなのに何も変わってくれない。死に行く命を繋ぎとめられない。
「リヴァイリヴァイリヴァイリヴァイ…!」
他の女のものになるはずだった私の惚れた男は、誰のものになることもなく、1人で逝ってしまった。