oblivious 05
元々ハンジとは学部も部活も違う。定期的に会う約束なんてしてない。偶然顔を合わせたら、いい酒が手に入ったから一緒に飲もうと誘い誘われたら、そんな不定期な付き合いの奴だ。1ヶ月や2ヶ月会わないことも別に珍しくなかった。
珍しくもないはずのこの1ヶ月が異様に長く感じたのは、勿論あの夜の愚行のせいだ。
(…逃げられたか)
逃げられることをしたという自覚はある。いつかは片を付けるべきことでも、あれは明らかに突っ走った。段階もクソもねぇ。やっちまった以上は悪酔いで片付けたりせずにはっきりと言えば良かった、と後悔しても後の祭りだ。気付いた時にはもう家に帰り着いていた。
お前が好きだと。お前の口から他の女の話を振られて腹が立ったと。言うべきことはそれだけだというのに。
(…ッ、クソ、…)
一度やっちまったものは無かったことには出来ない。あいつが悪酔いで片付けようとしても、逃げて忘れようとしても、だ。
(上等じゃねぇか、クソメガネ)
何の脈絡も無かったのは俺が悪い。だから時間を置くのは許してやる。だが、忘れて無かったことにはさせない。――今度こそ絶対に、片を付けてやる。
「あ、リヴァイ」
「…」
結局次にハンジと顔を会わせたのは、あの夜から2ヶ月近く経った頃だった。いい加減に押しかけてやろうかと考え始めていた頃、あいつの学部棟の近くを通りかかった時に、図書館から仕入れただろう資料を山ほど抱えたあいつを見つけた。
「…馬鹿かお前。台車を借りろよ」
「これくらいなら持てると思ったんだよ。実際持てているでしょ」
「今にも落としそうだがな」
「うっ」
ハンジは資料を山にして抱えていた。大学図書館からハンジの学部棟へと向かう途中だと俺でなくとも分かる。ハンジが女にしては筋力のある方にしても明らかに抱えすぎだ。早足に急いでいるのは単純に早く資料を下ろしたいからだろう。
(…バカが)
ハンジと俺と、どっちがだ。
急ぐハンジに併走しながら、俺はハンジの抱える資料の上半分を奪い取った。
「え? な、何? 持ってくれるの?」
「お前、今日は暇か?」
「へっ?」
小憎らしい程に平常運転。ちょっとの間会ってなかった友人と会って、普段通りに世間話をする。ハンジの様子は完全にそれだ。
(…人の気も知らねぇで、こいつは…)
と、そこまで考えて溜息が出た。こいつが人の気を察するという器用な真似が出来る女かどうかなんて、とっくの昔に諦めていたはずだったんだがな。
「今日? いや全然。今から教授の資料まとめの手伝いと後輩のレポートの下読みとえーとそれから」
俺が溜息を吐いたことすら気付かず、ハンジは荷物が軽くなった分足を速めた。あいつの研究室は3階にある。遭遇した場所から大した距離でもなくて話す時間も取れやしねぇ。
「いい。分かった。何時くらいなら帰って来れる」
「警備さんに追い出されるのが10時だねー」
「…。分かった。その頃に家に行く」
「え? 遅くなるよ?」
「構わねぇよ。いいな?」
「うん、いい、けど――」
なんで?と口にはしなかったから、俺も答えなかった。あいつの研究室に荷物を届けてさっさと退出する。
2ヶ月の間にとっくに腹は括ってる。今夜会ったらその時は、きっちり好きだと言ってやる。
22時を少し過ぎた頃にハンジの家へ行くとまだ灯りが点いていなかった。まだ帰ってねぇのかよ、と出直そうとしたが、ちょうど帰ってきたハンジが遠目に見えた。
「ごめん、待たせた? ちょっと片付けが長引いちゃってさー」
「いや、いい。とにかく入れてくれ」
「はいはーいっと」
鍵を開けて、中に入る。腐海っぷりは相変わらずだ。生ごみだけはちゃんと処理してるからね!といつだったか胸を張って言われたが、紙の束ならいいという問題じゃないだろう。
「何か飲む? って言っても、最近ほとんど寝にしか帰ってないからなー。買い置きも全部切れちゃってるんだよね」
「…お前、もしかして、この2ヶ月ずっと研究室に篭ってたのか?」
「んー? うん、教授の手伝いとかゼミの新入生の調整とかが重なってて」
「…」
昼間の様子から予想はしていたが、どうやらこの2ヶ月、避けられていた訳ではなく単にタイミングが悪かっただけらしい。
(紛らわしいんだよ…!)
なまじ身に覚えがあるから悪い方悪い方へと考えてしまうのかもしれないが――。
…避けていた自覚がなく、その上でこの態度と言うことは、ハンジの中ではもうあれは無かったことに消化されている、ということか。悪酔いした結果の戯れだと。
「…」
爪が食い込む痛みで初めて手を握りこんでいることに気が付いた。この2ヶ月で落ち着けて腹を括ったと思っていたが、そんなものは思い上がりだったらしい。
…腹が立つ。どうしようもなく。
「うん? どーしたのリヴァイ? この前の残りのスコッチならあるけど」
飲む?と振り返ったハンジの手を掴む。細い手首だ。往時も鍛えてる割には細い体だったが、研究室に篭りきりの今はもっと細い。軽く力を込めるだけですぐに折れてしまうくらいに。
「…リヴァイ?」
「…この前は」
「え?」
何をしてるんだろう、と目を丸くしたままの顔はいっそとぼけてるんじゃないかと思う。
腹が立つ。この期に及んでも危機感の欠片も持たないこいつに。夜に男と2人きりで腕を掴まれて、どうしてこんなに無防備でいられる。――どれだけ俺を男だと思ってないんだ、こいつは。
「急で悪かったとは思っている。だが、酔った冗談じゃなかった」
「…」
どこもかしこも細い癖に。掴んだ腕の柔らかさも。遥か昔、並んで廊下を歩いたあの夜から、こいつは誰よりも『女』でしかないと言うのに。
どうしてこいつの中では、俺は『男』になれない。
「――好きだ」
腕を掴んで逃げられなくして、好きだと言ってキスをした。
これでもまだ何も変わらないなら、俺の負けだ。